隋の煬帝

知り合いの先生の投稿に煬帝(ようだい)がちらっと出たのでまたしても無駄な知識。

隋を作ったのは煬帝のお父さん楊堅。楊氏は漢族と称していますが鮮卑族の一部です。奥さんの姓が独古。独古氏は昔の匈奴の支族で鮮卑族とは長らく婚姻関係にあった。

まあともかく楊堅は300年ぶりぐらいに中国を統一した。隋の高祖文帝です。中国統一王朝にはなったが長らく戦乱で国は荒れ果てていたから、質素倹約、産業振興に努めた。中国を統一した後は一回高句麗に形だけ軍を出しただけで、戦争をしなかった。この高句麗遠征というのは、高句麗が隋の版図遼西を攻撃した。高句麗は建国したばかりの隋の実力を試そうとしたわけだ。まあ色々と複雑な関係者の裏事情も絡んではいたのだが、ようするにこれは「お手並み拝見」だった。お手並み拝見されて黙ってはいられないから文帝も軍を出したが、あっさり高句麗に負けた。まだまだ、朝鮮半島を統一した高句麗を攻められるほど隋の実力はなかった。それで文帝はさっさと兵を引いた。他には文帝は国を統一してからは戦争というものをしなかった。

初めて科挙という制度を定めたのも文帝。それまで家柄でしか高級官僚になれなかったものを、能力で抜擢出来るようにしたわけだ。

独古皇后はやっかみが強く当時としては当たり前の重婚を認めなかった。つまり中宮とか許さなかった。それで文帝がヒステリーを起こして山に逃げちゃうという悲喜劇が起きたりした。変だよね、建国の帝王が奥さんの嫉妬にヒステリー起こして山に逃げちゃうって。

まあそういう夫婦ではあったが実は夫唱婦随、本当は仲がよかった。夫婦力を合わせて中国を統一し、質素倹約して国を興したんだから。それで奥さんの独古氏が亡くなると文帝もガックリ気落ちして、亡くなってしまった。

さて、煬帝は次男だった。煬帝の名前は楊広。実は隋が最終的に中国を統一した最後の戦争で楊広が軍を率いた。彼が最後の戦に勝って、隋は全国を統一した。だから次男ではあったが、次の皇帝になる望みはあった。楊広は両親が亡くなるまで、ひたすら善良な若者として振る舞った。長男楊勇が贅沢好みで浮気者だったので、皇太子を交代させられ楊広が皇太子になり、父親が死ぬと二代目帝王になった。

そこからだ。

実は楊広の善人ぶりは兄を皇太子から蹴落とすための芝居だった。文帝が亡くなってみると、文帝と独古皇后の産業育成と質素倹約で、倉庫には財宝、富がたんまり。楊広(これからは煬帝と書く)、目がくらんだ。これだけあればどんな贅沢でも出来ると思い込んだ。

それで、まずは洛陽の皇居大興城を超豪華に建て直した。さらに各地に次々豪華な離宮を建て、黄河と長江を結ぶ大運河を建設し、江南にも宮殿を建てて派手に遊んだ。東西南北、特にシルクロードのオアシス都市国家の王たちを洛陽に招き、国際会議と称して散々にもてなした。その時彼は都中の道に花をまき散らしたそうだ。だけどシルクロードから招かれてやってきた諸王は飛行機で来たわけじゃない。洛陽に来るまでの途上、隋がまだまだ貧しい実情をみてしまった。だから煬帝がどんなに派手にもてなしても、腹の底で嗤ったそうだ。

しかも、彼は文帝が負けた仇を討つと言って高句麗に軍まで出して、コテンパンに負けた。文帝は高句麗にちょっかい出されて形だけ軍を出したが一度負けたらさっさと引き上げたが、煬帝は「今回負けたのは準備が足らなかったからだ。よし、隋の国力を上げてもう一度高句麗を打つ」と言い張った。結局隋と高句麗は三回戦って勝ち負け無しの泥仕合になったが、この辺りで煬帝の命運は尽きたわけだ。

民は息つく暇もなく大土木工事や戦争に駆り立てられ、怨嗟の声は国中に満ちた。結局あちこちで起こった農民反乱を隋軍は鎮圧するどころか次々寝返り、国中に反乱軍が充ちた。煬帝は江南の離宮に行ったまま都には帰れなくなった。都では後に唐を建てた李淵が煬帝の退位を勝手に宣言し、煬帝の孫楊侑を皇帝に据えた。これは当然、禅譲のための準備だ。結局煬帝が江南で殺されると、シナリオ通り楊侑が権力を李淵に贈り、唐王朝が建った(まあその間色々あったんだがそれは省略)。

こんな煬帝だが、彼が作った大運河はその後の中国にとっては大きな遺産となった。それによって初めて黄河流域と長江流域が水運で結ばれ、中国経済が一体化したから。だけどまあ、同時代に生きた人々にとってはこんな皇帝はたまったものじゃなかったわけだ。だから未だに彼は「あんな奴は皇帝じゃない」というわけで煬帝(ようてい)ではなく煬帝(ようだい)と呉音で呼ばれる。なお煬というのは李淵が付けた諡で「天に逆らい、民を虐げた」という意味だ。

ところがこの話には後日談がつく。実は隋の楊家(楊と煬は違う字であることに気がつこうね)と唐の李家は縁戚関係にあった。どちらも鮮卑族の血を引いていたんだ。だから煬帝の娘は後に唐の第二代皇帝李世民の妃になり、子供をもうけている。つまり楊家は女系では何代か唐時代にも続いたって話。

お疲れ様。

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