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法制審議会家族法制部会第2回議事録4~ヒアリングA参考人

第2回議事録を読んでいると、ヒアリングが主だとわかったので、トップ絵を拝借し、このシリーズ全部に使う予定である

マガジンに組み込んでいただいてありがたいところ、ここから、あと10回くらい使うので恐縮です

さて、続きを読んでいこう

子どもの立場の3人目 Aさん


 それでは,3番目に,本日は匿名でお話を頂くということで,Aさんと呼ばせていただきますけれども,Aさんにお話をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。
○A参考人 よろしくお願いいたします。私も親の離婚を経験した子の立場から,自分の経験を回想してお話しさせていただければと思います。
 私は,私自身が2歳のときに両親が別居,離婚しました。2歳ですので,父と一緒に暮らしていた頃のことは全く覚えていませんし,父と母が離婚したときの状況についても全く記憶がありません。私と母,父と3人で住んでいた集合住宅から母が私を連れて家を出て,二人で住むようになったということです。
 私が物心付いたときには父との面会交流が既にありました。頻度としては恐らく2,3か月に一度ぐらい会っていたと思います,平均にはなりますが。一緒に過ごす場所は,幼児期の頃は上野動物園ですとか水族館,あとは遊園地,児童館,夏は公営プールなどに連れていってもらって泳ぎを教えてもらったこともあったと思います。大体いつも半日ほど過ごして,帰ってきているというような状況でございました。大体いつも面会交流の日は昼頃に待合せをして,早めの晩御飯を食べて帰ってくるという感じでした。旅行に行ったりですとか,余り遠くに行くことというのはありませんでした。
 幼児期の面会交流は,父と二人で会うこともあったのですけれども,私の場合は父と母の共通の知り合いの女性がおりまして,この女性がよく仲介をしてくれていたりですとか,父と面会するときは一緒に遊んでくれていました。女性は子どもの扱いもとてもうまくて,いつも私の気持ちに寄り添った対応をしてくれており,楽しく面会交流ができていました。この女性の支援がありまして,幼児期は面会交流が嫌だと思ったことは特にはなかったと思っております。父方も母方も祖父母の支援は受けられない状況でしたので,今思えばこの女性の存在はとても大きかったと感じております。
 幼児期は以上のような感じなのですけれども,幼児期から今度,小学校に上がりまして,小学校ぐらいからは面会の日は,母が父との待合せ場所に送り迎えして,すみません,幼児期から小学生の間ですね,は面会の日は母が父との待合せ場所に送り迎えをしてくれていました。駅で待合せして,私を受け渡してという感じでした。受渡しのときに父と母と一緒にお茶をして帰ることもあったのですけれども,私はそのときは小さかったので余り覚えていないのですが,母には少し気まずい時間を過ごしていたこともあったようです。
 私の誕生日やクリスマスなどは,父は服やおもちゃを買ってくれたりしていました。母が前もって,クリスマスにはコートを買ってもらえば,などと決めていたこともありました。子どもの頃は全くそういうことは知らなかったのですけれども,父は私の養育費については全く出していなかったとのことです。養育費は支払っていないのですけれども,私にプレゼントをするのは好きだったようでして,母はせめてそれを利用して生活に必要なものを買ってもらえばと思っていたのではないかと思います。今から考えると,たまに父に会うことは特に違和感もなく,当たり前のことだと感じておりました。年末になると母の実家に帰省することがあったのですけれども,それと同じ恒例行事のようなものだと思っていまして,自分にとっては特に違和感はありませんでした。
 小学校以降の面会交流についてお話しさせていただきます。小学生になると,土曜日に習い事に行き出したりですとか,友達と遊ぶことも増えましたので,面会の頻度は少し落ちました。低学年のときは年に3,4回,高学年になっても少なくとも半年に2,3回は会っていたと思います。父が再婚しまして,その父の家に遊びに行くようにもなりました再婚相手の女性も私のことをかわいがってくださる方でして,もてなしてくれていました。小学生になると自分で電話ができるようになりましたので,放課後など父に電話して学校などのことを話したりですとか,自分で勝手に,特に決まりはなかったのですけれども,自分で父に電話することもありました。高学年になってからは,面会の日程なども父と自分で電話をして決めていました。行きは自分で電車に乗って父との待合せ場所に行って,帰りは母に迎えに来てもらうという形でした。
 これは私の所感なのですけれども,面会の頻度や曜日などが決められていなかったのがよかったと思っています。幼児期は母に面会交流に連れていってもらう必要がありました。父の都合だけではなくて,面会交流の場合は母の都合もあると思います。そういった場合,頻度や曜日などが決められていると,親同士も子どもにとっても過剰なストレスになると私は思います。会えていたのはよかったのかもしれないのですけれども,頻度が決められているというのは誰にとってもストレスになるのではないかと思います。
 父は離婚前は保育園の送り迎えなどは少しやっていたそうなのですが,幼児の食事やトイレなどを器用に世話ができるタイプではなかったので,一緒に遊びに行ってくれる人が,先ほどの知人の女性ですね,がいてよかったと思っています。母が一緒に付き添って面会交流をしなければならなかったとしたらということを考えたこともあるのですけれども,それは,両親同士もですし,私にとっても気を遣わなければいけないので,そういうことがなかったのが私はすごく幸せだったなと思っています。正直,恵まれていたなと思います。
 私自身,少し神経質な子どもでしたので,学校行事があって疲れたりですとか気分が乗らないときは,約束をしていてもですね,面会交流の直前に父に電話をして,面会をキャンセルしたこともたくさんありました。父も特にそのことは気にしていなかったですし,何か嫌なことを言われたことはありませんでした。母も同じように,父からそんなことで何か文句を言われたりとかということもなかったようです。今の感じからも分かるかもしれませんが,父も私にすごく関心があるという感じではなかったと私は小さい頃から思っています。どちらかというと自分が子どものような人で,趣味が多くていつも忙しそうだと子どもながらに思っていました。
 私が子どもの頃から,母は父のことについて何かマイナスの情報を話すことも全くありませんでしたので,私自身,幼児期の頃から小学生の頃,父について特に嫌な印象はありませんでした。父も面会交流のときに母の悪口を言うようなことはありませんでしたので,お互いの両親についてお互いから聞くということも余りありませんでした。
 私が高校生のときに,母が転職したこともあって収入が減りまして,私の進学の費用について母と相談する機会がありました。このときに初めて,父が私の養育費を全く払ってこなかったことを知りました。払っていると思っていたわけではないのですけれども,母はずっと外で働いていましたし,私の生活を優先していろいろなことを考えてくれているのは分かっていましたので,このときに父が養育費を払ってこなかったということを知って,少し父に腹が立ちました,そのときは。そのときはしばらく会いたくないと思っておりまして,高校生のときは2,3年ほど,高校の間ずっとですね,父には会っていなかったと思います。母は父のことについてマイナスのことを言うことは,子どもの頃は全くなかったのですけれども,私がこれを機にいろいろ母に問い詰めるようになると,離婚の原因もどうやらお金のことだったのだなと改めて母から聞かされました。これも,私がいろいろせがんでやっと母から聞かせてもらったような形だったので,お互いにお互いのことを余り言わないように,平和協定みたいなものがあったのかなと思います。
 その後,私は大学も理系に進んだのですけれども,理系ですので学費が大変かさみました。今も働きながら奨学金を返済している形です。父から経済的な援助がなかったことは,いまだに私は不満に思っています。というのは,子どもの頃から父もそれほど経済的に困窮しているようには見えなかったというのがありまして,母は結構あくせく働いて,私が困らないようにとしてくれていたのですけれども,父はどちらかというと道楽者というか,それほど困っているようには見えないのだけれども,養育費は出していないということを高校生になってから知って,少し不満を持つようになりました。父とたまに会っても,今もたまに会うのですけれども,お金の話は一切しません。父も高齢者になっていまして,持病もあるので,今更特には期待はしていません。
 養育費を支払っていなかったので,父としては当然のことだとは思うのですけれども,父が私の進学や進路などについて口出しをすることは一切ありませんでした。養育費の支払がなかったことを知ったのは高校生になってからなのですが,それよりずっと前から,一緒に住んでいないし私の養育をしているわけではない父が私や母の生活に口出しをすることはありませんでした。子どもながらに,それも当たり前のことだと感じておりました。
 小さい頃から母が自分のよりどころになっていましたので,仮に母とけんかしたからといって父のところに行くということは,子どもながらに全く考えたことがありませんでした。今思うと,それが象徴的だなと思うのですけれども,私は子どもの頃から父とけんかをしたことも全くありませんでした。子どもの頃から母にはいつも体当たりというか本心で接していたのですけれども,その分,けんかになることも母とはたくさんありました。それに比べて父の関係はとても薄かったですし,母に甘えるほどは父には甘えていなかったと思います。たまに会う人になっていますので,もうそれが普通のことでしたね。一緒に住んでいないことを考えると,当たり前だと思います。自分の日常の暮らしや友達との関係,学校のことなども父とは話すのですけれども,時々会うだけの人に断片的に話しても,父も実感としてよく分からないですし,私も父に何かアドバイスを求めていたようなところはなかったと思っております。
 思春期や反抗期に親と余り話をしなくなったり,私もありましたが,いろいろ詮索されたくないということは普通の心理だと思います。私も不登校になったりですとか,母に反発した時期があったのですけれども,だからといって父に甘えたいとか,悩みを聞いてほしいと思ったことは特にありませんでした。父に反発して会いたくなかった高校生の時期も,父も母も特に,面会をしておいでと強制をしたりですとか,なぜ会わないのと根掘り葉掘り聞いたりもしないでそっとしておいてくれていました。両親ともそういう態度だったので,今でも父と時々会う気になるのだと思います。制度ですとか,人に強制されるというのは,やはり結構ストレスになる場合もあるのではないかなと個人的には思います。
 両親が離婚することによって,逆に,月1回などといって決まって親と過ごすことが必要になるのは,私は違和感を感じます。中学生や高校生になって自分の世界がだんだん広がっていく時期に,毎月お父さんと一日遊びに行くという子は余りいないと思います。それは子どもによりますし,場合にはよるとは思うのですけれども,決められているということのストレスがあると思います。もちろんそうしたい子はそうすればいいと思うのですけれども,私自身は強制されなくてよかったなというのを大人になってからとても感じております。親であれ誰であれ,いつ会ってどんな話をするのか,とてもプライベートなことなのに,こう在るべきという規範が入ってくることは避けてほしいなと私個人としては感じます。
 すみません,少しまとまっていないのですが,以上となります。
○大村部会長 どうもありがとうございました。

ついに、母子家庭出身だった方の登場

面会交流はあったが養育費がなかったというケース

それも実際多数派なのかな?


改めて読んでみて、たしかに中学生が丸一日親とおでかけということを日本人全体が文化として育んでこなかったのかもしれない

私も、特に両親は離婚していないが、父親とお出かけした思い出自体が乏しい

でも、旅行に行く家族はいるわけで、あと、子どもが夢中で取り組んでいる部活なんかを、子どもに疎まれながらも応援に見に行くのに必死な親(それも離婚家庭ではない)もいる

親の愛情あふれる眼差しにたっぷり包まれて育っていくのがまだまだ中学生も「子ども」ということだ

そこに親子断絶はない

私の父親との思い出は、プロレスに興味があって、大仁田厚の流血ショーを見に連れて行ってくれたのは父親だった

あとは勝手に塾にいってお勉強していた子だったので、たまに質問してみようかな、という会話があった

ゲームやキャッチボールをすることがあった弟の方がもう少しコミュニケーションがあったのかな

ゲームも弟の楽しんでいるソフトがあれば、父もひっそりプレイして楽しむことがあったみたい

あんまり一緒にプレイして遊ぶような感じではないけども、同じゲームに夢中になる、というだけでも親子の交流がある

いわゆるサラリーマンの父親は本当に忙しく長時間労働で家庭にいなかった

単身赴任の時期もあったし、転勤も重なった

詳しいお金のことはわからなかったし、気にしたこともなかったけど、父が働いて稼いでくれている(母は専業主婦)おかげで、自由な暮らしがあるのだろうということはひしひしと感じていて、父への敬意が自然に育っていた

怒られたこともないのは優しいように見えて、ある意味細々とした子育てを母に任せっぱなし、だから、私は(弟も)母とは衝突することもあったのは、客観的にはいろいろな評価がありうるかもしれない

細かい協議のようなことはなく、転勤に伴って有無をいわせず転校することもあった

決められたことは受け入れるしかなかった

そこの負担がゼロとはいわないが、バネとなったのも、知らず知らずに両親に支えられていたのだろう

親子のあり方はもっと語られたい

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