逗子の山寺・神武寺の御開帳 :2
(承前)
神武寺の諸堂は、岩場の起伏を利用してあちこちに散らばっている。山岳寺院というより、城塞のよう。
それもそのはず、神武寺の境内は中世の山城跡でもあるのだ。鎌倉の北条氏によって、南東の守りを固め、三浦氏への睨みをきかせる砦がここに築かれた。
戦国期、神武寺は後北条氏からの庇護を受けた。有事の軍事利用を踏まえてのことだろう。秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅ぼされると、神武寺も焼かれてしまった。
現存の堂宇は、ほぼ近世以降のものだ。
薬師堂での法要は、すでに始まっていた。三方が開け放たれ、熱心な参拝者が集うなか、読経の声があたりに響きわたる。
法要後、自由参拝となった。
秘仏・薬師三尊は写真撮影不可で、逗子市のサイトをはじめウェブ上でも、各種の出版物でも、掲載される写真は以下と同じものだった。
実物は、画像から受けていた感じよりも古格があって、彫りの深い凛々しい顔つきだった。掌の肉付きがとてもよく、触るとふにふにと柔らかそうだったのが印象的。
室町期の作例で、螺髪や衣紋線などに簡略化がみられるのは確かだが、お顔のおおらかで確信に満ちた表情は独特で、引き込まれるものがある。安心して、すがりたくなるお像だ。
三尊の両脇に、享保期の十二神将が付き従う。堂内は10人も入ればいっぱいになるほどで、お像も含めた人口密度(?)がすごいことになっていた。
感染拡大中は、お堂の外から拝む形をとっていたとのこと。今年は間近でじっくりと拝見できて、よかった。
帰途、境内の「みろくやぐら」へ。
内部には弥勒菩薩の石仏が立っており、銘文から、正応3年(1290)に没した鶴岡八幡宮の舞楽師・中原光氏の墓と判明している。
鎌倉周辺にはこういった洞穴の墳墓「やぐら」が無数に残っているけれど、故人の俗名が明らかになっているのは唯一、ここだけとのこと。
たいへん貴重な例であるとともに、葬られた人物が舞楽師だったという点には、どこか惹かれるところがある。
光氏は、「裸弁天」として知られる鶴岡八幡宮《弁財天坐像》(重文)の奉納者でもある。光氏とは、どのような人物だったのだろうか。ますます興味がそそられる。
——神武寺には、他にも多くの寺宝が伝わっており、県や市の文化財指定を受けているものもいくつかある。
絵画などの主要な資料に関しては、横浜の神奈川県立歴史博物館に寄託されているようで、現地を含めて公開される機会は少ない。
そんななかから、一昨年に横浜で展示された逸品をご紹介して、むすびとかえたい。
江戸中期・元文4年(1739)に制作された《十王図》である。
なんともすばらしき素朴絵!
いつか、どこぞの展示で拝見が叶うだろうか。アンテナを張っておくとしたい。
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