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逗子の山寺・神武寺の御開帳 :2

承前

 神武寺の諸堂は、岩場の起伏を利用してあちこちに散らばっている。山岳寺院というより、城塞のよう。
 それもそのはず、神武寺の境内は中世の山城跡でもあるのだ。鎌倉の北条氏によって、南東の守りを固め、三浦氏への睨みをきかせる砦がここに築かれた。
 戦国期、神武寺は後北条氏からの庇護を受けた。有事の軍事利用を踏まえてのことだろう。秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅ぼされると、神武寺も焼かれてしまった。
 現存の堂宇は、ほぼ近世以降のものだ。

ふたつの岩壁が、行く手を狭めている。岩間の植生も、この周辺に特有のものとか
岩壁の道を抜けたところにある客殿
岩壁の上へ。しばらく尾根づたいに歩く
さらに上の台地へ、薬師堂を目指す。木の根元が洞穴になっており、六地蔵が祀られていた
六地蔵を右手に、楼門を見上げる。別名・医王門。「医王」とは本尊・薬師如来のことで、神武寺の山号にもなっている
宝暦11年(1761)築
薬師堂(本堂)。寺伝では文禄3年(1593)築。逗子市の文化財のページではもう少し詳しく記述されており、「現在の建築の主要部分は、棟札や墨書などから」寛文期に再興したものではとのこと。古材を部分的に転用した再建は、古建築ではよく耳にする

 薬師堂での法要は、すでに始まっていた。三方が開け放たれ、熱心な参拝者が集うなか、読経の声があたりに響きわたる。

 法要後、自由参拝となった。
 秘仏・薬師三尊は写真撮影不可で、逗子市のサイトをはじめウェブ上でも、各種の出版物でも、掲載される写真は以下と同じものだった。

 実物は、画像から受けていた感じよりも古格があって、彫りの深い凛々しい顔つきだった。掌の肉付きがとてもよく、触るとふにふにと柔らかそうだったのが印象的。
 室町期の作例で、螺髪や衣紋線などに簡略化がみられるのは確かだが、お顔のおおらかで確信に満ちた表情は独特で、引き込まれるものがある。安心して、すがりたくなるお像だ。
 三尊の両脇に、享保期の十二神将が付き従う。堂内は10人も入ればいっぱいになるほどで、お像も含めた人口密度(?)がすごいことになっていた。
 感染拡大中は、お堂の外から拝む形をとっていたとのこと。今年は間近でじっくりと拝見できて、よかった。


 帰途、境内の「みろくやぐら」へ。
 内部には弥勒菩薩の石仏が立っており、銘文から、正応3年(1290)に没した鶴岡八幡宮の舞楽師・中原光氏の墓と判明している。
 鎌倉周辺にはこういった洞穴の墳墓「やぐら」が無数に残っているけれど、故人の俗名が明らかになっているのは唯一、ここだけとのこと。

みろくやぐら外観
《弥勒菩薩坐像》
左右には、歴代住職のお墓が

 たいへん貴重な例であるとともに、葬られた人物が舞楽師だったという点には、どこか惹かれるところがある。
 光氏は、「裸弁天」として知られる鶴岡八幡宮《弁財天坐像》(重文)の奉納者でもある。光氏とは、どのような人物だったのだろうか。ますます興味がそそられる。


 ——神武寺には、他にも多くの寺宝が伝わっており、県や市の文化財指定を受けているものもいくつかある。
 絵画などの主要な資料に関しては、横浜の神奈川県立歴史博物館に寄託されているようで、現地を含めて公開される機会は少ない。
 そんななかから、一昨年に横浜で展示された逸品をご紹介して、むすびとかえたい。
 江戸中期・元文4年(1739)に制作された《十王図》である。

 なんともすばらしき素朴絵!
 いつか、どこぞの展示で拝見が叶うだろうか。アンテナを張っておくとしたい。



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