没後50年 木村伊兵衛 写真に生きる /東京都写真美術館
土門拳(1909〜90)と木村伊兵衛(1901~74)。
日本を代表するふたりの写真家には、その名を冠した写真賞がそれぞれある。土門拳賞は毎日新聞社、木村伊兵衛写真賞は朝日新聞社の主催で、ともに毎年3月に受賞者が発表。先日行ってきた中野坂上・写大ギャラリーの土門展は、この時期に合わせた展示であった。
かたや、恵比寿の東京都写真美術館では、木村伊兵衛の回顧展が開催中。やはり木村伊兵衛賞のタイミングと会期がかぶせられている。今年は没後50年で、こちらのほうが規模は大きい。土門展の翌日、こちらの展示にも行ってきた。
伊兵衛の被写体は、ほとんどが人間。
もちろん土門にも人を写したものはたくさんあるけれど、写大ギャラリーの土門展が古寺古仏、風景、植物に絞られていたために、より対照的に思われたのであった。
著名な画家や作家、芸能人のポートレートが並ぶ一角に、横山大観の姿があった。池之端の自邸で、庭石に腰かけて一服。
自宅でこそ撮れた、じつにさりげないワンシーン。カメラ目線をしていたり、それらしいポーズをとってはいない。
ここにもよく表れている撮影にあたっての姿勢を、伊兵衛みずからが語った一節が、幸田文との対談のなかにあった。伊兵衛は文の父・幸田露伴を撮影している。
「構えた」写真では、撮る意味がない。伊兵衛はそう考えていた。
永井荷風の写真も目を引いた。
浅草仲見世の雑踏に、みごとに紛れこんでいる荷風。頻繁にかよいつめた浅草は、ホームグラウンドのような場所。自宅で撮影した大観と、同じといえば同じ状況か。
いっぽうで、少し「浮いた」感じもする。ひとりだけ立ち止まっていることや、ずば抜けた高身長がその理由であろうが、存在自体が異質とも思われる。しかしそれゆえに、単なる街頭風景ではなく、肖像写真になりえている。
ふとした一瞬、群像のなかで個が際立ち、主役が生みだされることがある。大観や荷風のような有名人に限らず、しかも時に同時多発的に複数の主役が現れる——そんな瞬間を捉えた写真こそが、伊兵衛の本領といえるだろう。
《本郷森川町》(1953年)は、まさにそのような一枚。
道行く紳士に、幼子をおぶった割烹着の女性、近所の小学生、警官……写りこんでいる人のひとりひとりに、なにかしらのストーリーを想像したくなる。意味深とすら思える光景だが、これとて「構えた」写真ではないのだ。この瞬間を捉えた伊兵衛の技量には、脱帽しかない。
この作品が象徴するように、伊兵衛の群像表現はじつに情報量が多い。一枚の写真を前にして、想像を膨らませながらいくらでも語り合えそうな作品となっている。これは秋田や沖縄、ヨーロッパ各地や中国で撮られた一連の作にも共通していえるポイントであった。
「構えた」写真ではないからこそ、そこには、生活のにおいや時代・土地の空気、あるいは被写体との関係性が、濃厚に凝縮されているともいえよう。
出船の準備をする人びとを写した《漁村》(1940~41年)。青木繁《海の幸》を思わせる光景が、この当時もなお漁村ではみられたことがわかる。人体の美しさや、労働に対する賛歌……とまではいわないが、一糸まとわず無心になって働き、日々を生きていこうとする姿がしかと捉えられており、胸を打つ。
広島で撮影された《若い人》(1946年)は、蜂の巣状に破壊されつくした機関銃の残骸を横目に、若いカップルがこちらに背を向けて仲睦まじくしている図。戦災復興の息吹、新たな時代の予感を、一枚のなかに感じ取ることができる。
また《柳橋》(1962年)では、手前の竹竿に白い塊がいくつも干されており、その奥に川を挟んで瓦屋根の瀟洒な建物が並んでいる。白い塊は、よくみると足袋。写された足袋の数ほど多くの芸者を抱えた川沿いの花街といえば、柳橋くらいしかないだろう。最小限のモチーフだけで、謎掛け的に被写体とした場所を象徴させているのだ。
パリで、アンリ・カルティエ=ブレッソンを写したカット(1954年)。ファインダーの向こうの彼もまた、カメラを構えんとしている。ガンマンの「早撃ち」ならぬ、カメラマンの「早撮り」対決であろうか。ふざけあっているような、親密な関係性がうかがえる。
——被写体となった誰もが「けっして、飾らない」「カメラに向かって “カッコつけていない”」といったあたりは、伊兵衛作品のキーワードといえそうだ。
土門拳の場合は「これがオレだ!」とばかりに、有無を言わさずに強烈な個性をぶつけてくる。伊兵衛とは水と油の作家性かなと思われるけれども、どちらにもよさがあって、魅力は尽きない。
東京都写真美術館にやってくるのは、ずいぶんと久しぶりだった。写真の展示を観に来るのも、たまにはいいものだな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?