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哲学の道と「鹿ケ谷カボチャ供養」 /京都・住蓮山安楽寺

 祇園祭でのご奉仕は、昼過ぎから深夜遅くまで。ホテルに戻ってからは、泥のように眠った。
 翌朝。たいそうな疲労の蓄積を感じつつも、また動きはじめた。前日の草履に比べれば、履きなれた洋靴はびっくりするほど歩きやすかったのだ。

 バスに乗って「哲学の道」の南端へ。
 琵琶湖疏水に沿ったこの小径は、西田幾多郎ら京都学派の哲学者たちが思索に耽りながら逍遥したエピソードにその名を由来する。
 北端の銀閣寺まで、せいぜい2キロの平坦な道のりでありながら、部分的に歩いたことはあっても、端から端まで歩き通したことはなかった。
 この日は近隣の安楽寺で、年に一度の「鹿ケ谷(ししがたに)カボチャ供養」がおこなわれる。二兎を追って、東山にやってきたのだ。
 平日のためか、道端では外国からのお客様にちらほら出会う程度。暑さもさほどではない。
 哲学のような小難しいことはなにも考えずに、ただぼーっと歩みを進めた。

このような道が、ずっと続いていく。右手が山側、左手の眼下には京都市街を望む。本気でぼーっとしていると川に落ちそうなので、それだけ気をつけた
哲学の道沿いに現れた「鹿ヶ谷カボチャ供養」の看板
カボチャが無料で振る舞われるとあって、にぎわう安楽寺

 九条葱や聖護院大根などとともに、京野菜の一種として知られる鹿ヶ谷南瓜。ゴジラのようにごつごつとした、瓢箪形の外見が特徴的だ。

撮影用カボチャ。座布団に鎮座

 江戸後期、現在の青森県から請来された種子から栽培が広がったものという。
 京の由来でも、南方の由来でもなく、もとは北からやってきた点、さらに、そう古い話でもない点には意外さを感じた。
 この鹿ヶ谷南瓜を用いたカボチャ供養の由緒は、安楽寺の公式ページによると以下のようなもの。種子の請来・伝播と同じ、江戸後期の逸話である。

当寺の住職、真空益随(しんくうえきずい)上人が本堂でご修行中、ご本尊阿弥陀如来から「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る舞えば中風にならない」という霊告を受けられたそうです

 中風とは半身不随など脳卒中の後遺症を指すが、つまりは、暑い盛りに栄養価の高いものを食べて精をつけましょうという、うなぎと同種の考えからきているようだ。
 本堂に参拝し、ご住職の講話を拝聴してから……ありがたく、いざカボチャ。

入場時にいただいていた「かぼちゃ券」と引き換えに、カボチャの煮物と冷たいお茶が配膳
食べ馴れたカボチャよりも、ねっとりとした舌ざわり。食べごたえがあった
厚くてごつい皮も柔らかくなるくらい、よく煮込まれていた
安楽寺の本堂。カボチャが振る舞われたのは右の建物

 住蓮山安楽寺は、法然の弟子である住蓮と安楽によって創建された浄土宗の寺。
 寺号はともかく山号にも人名が入るのはめずらしい形だが、住蓮と安楽のたどった運命を思えば、こうして名が冠されるようになったのもうなづける。
 ふたりは、後鳥羽上皇が寵愛した女官・松虫と鈴虫の出家に関わったかどで上皇の怒りを買い、斬首に処せられてしまった。火の粉は師・法然や同門の親鸞にまで及び、いずれも流罪に。世にいう「承元の法難」である。
 境内には、住蓮・安楽の塚、松虫・鈴虫の塚もあり、しっかりお詣りをしてから寺をあとにした。

 鹿ヶ谷といえば、平氏打倒を企てながら露見・頓挫した「鹿ヶ谷の陰謀」が思い浮かぶ。
 承元の法難といい、きな臭い逸話が奇しくも重なってしまった土地だが、現代のこの界隈は、いたって静かでのどか。おまけに、カボチャもおいしい……
 そんなことを考えつつ、哲学の道を北上するのであった。

法然院に寄り道
葉っぱの先をうまい具合につたって、手水がひと筋だけ流れ落ちていた
銀閣寺に近づくにつれ、人に会う頻度が高まった

 終着点の銀閣寺門前まで、あっという間に着いてしまった。
 時刻はちょうど正午をまわる頃。京都で過ごす時間は、あともう少しだけ続く。



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