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サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展 /千葉市美術館

 鳥文斎栄之(ちょうぶんさい・えいし)は、浮世絵の黄金期に美人画で活躍し、喜多川歌麿と鎬を削った絵師。
 すでに高名であり「知られざる存在」とはとてもいえないが、一般的な知名度では、ライバル・歌麿に大きく水をあけられている。「知る人ぞ知る存在」ではありそうだ。
 そんな栄之の回顧展は、本邦初どころか世界初とのこと。喜ばしい。「ついにきたな」といった感じである。

本展リーフレット

 展覧会名にあるように、栄之の身分は武士。旗本で、将軍が使う絵の具を溶く「絵具方」と呼ばれる役職にあった。
 会場では、金蒔絵の入った近世の絵具箱が展示されていた。栄之その人のゆかりの品でこそないものの、かなり珍しい資料。この頃の栄之の仕事ぶりが、よく想像できた。
 栄之に関しては、こういった出自や経歴が、モチーフの選択、作風にまで影響を及ぼしている点が、まずおもしろい。

 武家らしく、最初は幕府の奥絵師・狩野栄川院典信に学んでいる。「栄」の字は、師から受け継いだものだ。
 栄川院は、あの田沼意次と昵懇の仲。田沼邸の隣に構えた居宅では、政治的な密談もおこなわれたとか。田沼の失脚と時期を同じくして、栄之は浮世絵師に転じている。なにか関連があるのではと、勘操りたくもなろう。

 栄之は、浮世絵師としてのデビュー当時から、大判の三枚続や五枚続といった大画面の錦絵を、いきなり任されている。
 つまり、浮世絵師としては下積みがなかった。狩野派門人としての素養が重視されたのであろうが、破格の厚待遇である。

三枚続の鳥文斎栄之《貴婦人の舟遊び》(寛政4~5年〈1792~93年〉頃  ボストン美術館)
五枚続の鳥文斎栄之《川一丸船遊び》(寛政8~9年〈1796~97年〉頃  ボストン美術館)

 これらの作品がそうであるように、モチーフの面でいえば、裕福な商家・武家など上流階級に属する女性像が多かった。吉原の遊女たちも描いてはいるけれど、この点が栄之最大の特徴といえよう。
 華やかな世界を、憧れのまなざしをもって垣間見したいというニーズが庶民にはあり、その世界を直接見知っている栄之は最も適任だったのだろう。
 栄之の作品を観ていて気づいたのは、描かれる器物・調度品に具体性があること。うるしにしてもやきものにしても、実物が容易に思い浮かべられるのだ。将軍のそばで、いいものに日常的に触れてきたからこそ、できた描写なのではないか。

 栄之は高価な顔料をふんだんに使い、背景には黄を一面に塗った「黄つぶし」を多用。たいへん贅沢なつくりとしている。
 こういった点には、栄之の一貫した作家性が如実に表れているといえようが……それよりなにより、栄之の筆そのものに、こざっぱりとした爽やかな品格が漂っていることは見逃しがたい。

 かといって、お高く留まったようすもない。にこやかな表情は、鑑賞者の気分までをも、ぱっと明るくしてくれる。
 わたしは勝川春章の美人画がすきなのだが、春章の描く町娘の町娘らしからぬ気高さと栄之の美人は好対照で、こちらへ歩み寄ってくれるような、親しめる人物像になっていると思う。

 寛政の改革による出版統制をきっかけとして、栄之は錦絵の制作から手を引き、一品制作の肉筆画へ活路を見出した。絵師としての身の振り方に、幕臣であったことがどうやら関係していそうだというのは興味深い。
 栄之による肉筆美人図の掛軸を集めた展示室が、まさに圧巻だった。出光美術館《二美人図》、摘水軒記念文化振興財団《立美人図》、神奈川県立歴史博物館《見立荘子》など、珠玉の名品がずらり。極めつけである。
 千葉市美術館《朝顔美人図》(寛政7年〈1795〉)に横溢する風情に、とりわけ打たれた。平戸藩主・松浦家の旧蔵品。

 肉筆画はもうひと部屋続き、新発見の屏風などが展示されて、栄之展はお開き。
 同じフロアの途中から「武士と絵画 ―宮本武蔵から渡辺崋山、浦上玉堂まで―」という関連展示に切り替わったのだった。

 ——栄之のような、ビッグネームの影に隠れがちな作家にも精力的にスポットを当てるのは、千葉市美術館のすごいところであり、「らしい」ところでもある。
 単館開催だったのが非常にもったいない、魅力あふれる展示であった。


コレクション展より、織田一磨《画集銀座 屋台店》(昭和4年)
美術館の1階にある、旧川崎銀行千葉支店本館(昭和2年)の扉装飾



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