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本を読むということ④ 絵にする? しない?


 酒鬼薔薇君の『絶歌』の中で「(酔っぱらっていてよく覚えとらんけど)竜ケ台の事件は八割がた俺がやった」とダフネ君を殴る場面があって、何故殴ったのかと言えばそういう場面が必要だというのがその答えで、酒鬼薔薇君は映画を撮るように本を読んでいたという話があるが、私はいままでそのことを彼のレトリックと切り離して考えていた。

 私は「植物の名前が三つ入った立体的な風景描写」が自然にできることが
何か自分の書いたものを他人に読んで貰おうという人の最低限の技術だと考えていて、それができている人とできていない人のあいだに明確に線を引く。酒鬼薔薇君はそれができている。何か書く練習をしたんだなと勝手に思い込んでいた。

 だから何かにフォーカスして引きの絵で場面転換する「刑事コロンボ」で多用される技法を『絶歌』に二つ見つけた時、ただ『金閣寺』から「蝉の啼音」といった言葉を盗むだけではなく、シナリオの勉強でもした経験があるのかなと思い込んでいた。ナイフにフォーカスして場面転換するのは「父の涙」の章である。この場面転換後の時空が、本来は後半部に属すべきであることに気が付いても、あるいは「ニュータウンの天使」がずっと前の記憶であることに気が付いても、そのぐらぐらする時間軸はある種の作為としか見えなかった。

 しかし全ては私の勘違いで酒鬼薔薇君には、自身の物語がそのように記憶されているのかもしれないと疑い始めたのは最近のことだ。

 その少し前、例えば『趣味の遺伝』を映像化するとしたらどうなるだろうかと考えて、皇軍兵士をそのまま狗の姿で描くべきではないかという結論に至った。真っ黒な人間同士が戦闘しても、狗には見えないからだ。そこから転じて、人々は小説をどの程度映像化しているものかと調べ、考え、内省とともに、かくまでに大勢の人たちが夏目漱石作品を読み間違う理由の一つに思い当たった。

 少なくない人が小説を映像化して読んでいる。自然に構図が立体になる。位置関係が明確になるのと同時に、明らかに情報が足りないところを勝手に補っている。そして理屈の分からないところに理屈を足してしまっているのではなかろうか。

 たとえば『こころ』の先生は静と二人で暮らしている、と書く人は「私」が最初に先生宅を訪ねた時に下女が応対していることを忘れている。これは単なる杜撰だが、それは下女の現れないところを自分の中で映像化してしまい、その情報量の差で、事実を覆い隠してしまった結果ではなかろうか。

 また先生が明治天皇崩御の知らせを聞いて殉死した、と書く人は崩御と御大喪をごっちゃにした上に乃木将軍夫妻の問題を完全に蚊帳の外に於いている。しかし彼らのシナリオには無意識に、崩御に殉死するならわかるが御大喪の朝、あんな写真を撮ってから殉死するのはおかしいと云う理屈があったのかもしれない。

 文字より映像の方が圧倒的に情報量が多い。そもそも小説は明確に書かれていないことを補いながら読まなくては意味が通じない。従って「書いてあることを読まない」のはともかくして「書いていないことを勝手に付け足す」ということは、ある意味、ある程度は仕方のないことではないか、と気が付いたのである。

 それが例えば美禰子の結婚相手である。大岡昇平、小谷野敦はこれを銀行員としてしまう。銀行員でもいいのだが、どうもそうは書かれていない。書かれていないのに銀行員になっている。彼らにはそんな絵が見えたのではなかろうか。『それから』の平岡は元銀行員で新聞記者、関も元銀行員ながら『こころ』と『明暗』の関の職業は解らない。解らないが多分銀行員ではない。信じるか信じないかはあなた次第だ。

 『こころ』の最初の海水浴の場面でも、理論上全裸である筈の「私」に対して、読者は勝手に水着を着せてしまっているのだろう。何の悪気もなく。理屈に常識が勝ってしまうのだ。どうもそれが描きにくいのか。何しろ水着が書かれていないだけでなく、その下にあるものも書かれていない。それは西洋人のすけすけの猿股の下にあるものとは違うはずだ。

「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応えのあったようにも思った。また的が外れたようにも感じた。仕方がないから後はいわない事にした。すると先生がいきなり道の端へ寄って行った。そうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。(夏目漱石『こころ』)

 この場面もたいていの読者の記憶から消えている。絵を描こうにも見えていないので仕方ない。


【附記】

「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」

 …の中の台詞である。

ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

ちんぽこの湯気もほんによい湯で

ちんぽこにも陽があたる夏草(或はまらか)


 と、句を練る山頭火。そこを練るか。


 しかし夏草って、どこで露出しとんねん。



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