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本を読むということ 『絶歌』は『金閣寺』のパロディ

 たいていの人は、本を読んだといいながら、実はほとんど読んでいないのではないかと最近日増しに実感するようになった。ここでかりに「本」と書いたが、それは「文章」と言い換えても良い。東浩紀さんや永井均さんがツイッターのクソリプに困惑する様は傍から見ていてももどかしい。それは「書くことの不可能性」といった極論の手前で、ある種の人々が圧倒的な大多数であることによるのではないか。ことに永井均さんは基本的に「私対全人類」という構図の中で戦っているようにさえ見える。私はそこまで偏屈ではないつもりでいたが、「私対全人類」ではないにせよ、常識を超えた圧倒的多くの人々が文章読解力に欠いていることが解ってきたのだ。

 例えば私はこれまで元少年Aの『絶歌』について、その結末が三島由紀夫の『金閣寺』のパロディの形式をとることを指摘してきた。同じ指摘は皆無である。ひろゆき式の「あなたの感想ですよね」で否定できるのは、『命売ります』のパロディの形式をとる、と書いた場合である。『絶歌』では『命売ります』には触れられないが、『金閣寺』はバイブルとされている。『絶歌』が三十万部売れたとして一万人くらいは読んだだろうか。三島由紀夫の『金閣寺』は百万人は読んだだろう。それでも『絶歌』について、その結末が三島由紀夫の『金閣寺』のパロディの形式をとることを指摘しているのは私一人なのだ。

 何故この理解が重要かと言えば、ほぼすべての読者が『絶歌』を真実が語られた手記として読んでおり、事件の事実を無視して、『絶歌』に書かれていることを信じ切っているからである。よく読めばわかることだが、『絶歌』は事件の関連本を読めば、本人でなくても書くことのできる内容であり、いくつもの嘘が隠されている。そうした嘘に気が付かないで、精神分析を始める精神科医もおり、教育について論じる教育家がいた。こんな時、まず『絶歌』はこういう本ですと指摘できる評論家が存在しなかった。その比喩の大げさ、気取りをからかってお終い。まさに作中でやすやすと狩られてしまうワトソン君、精神狩猟者である。実に恥ずかしい。

 ウイキペディアではいまだに『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』という本が存在することになっている。奥付を確認すれば、「神戸連続児童殺傷事件」は著者名「元少年A」にかかる。このスペースには「犯人」とも「容疑者」とも書かれていない。つまりウイキペディアの記事を書こうとした間抜けは『絶歌』を基本的には読んでいないのである。読んでいないのに書こうとする。これは本当に間抜けなふるまいではなかろうか。

 しかし問題は『絶歌』に関することだけではない。「鹿火屋の下でカジカガエルが鳴くのはおかしいのではないか」「『右大臣実朝』で太宰は実朝の面白さ(良い意味での滑稽さ)を書いている」「三島の忠義は幻の南朝に捧げられているので、南朝に触れない三島天皇論には意味がない」「『坊ちゃん』の「おれ」は物理大学を三年で卒業するのに松山中学赴任時には二十三歳になっている」「『三四郎』は徹底して色が隠される話だ」「『それから』では生きたがる男・代助が批評家になる」「『門』の冒頭で宗助は胎児の形になる」「『こころ』の先生は寝たきりになった義母を浣腸したように仄めかされている」「『行人』は塵労で分裂していない」「『道草』は私小説ではない」「『明暗』では二人の小林が登場し、生きたままの生まれ変わりの存在と、男と男が結ばれる成仏が仄めかされていることから、津田の痔瘻は結核性ではなく外傷性のものである」「『明暗』で清子が飛行機に乗り、反逆者と呼ばれるのはおかしい」……などと書いてきた。しかしこれらのことはほぼ誰にも伝わらない。

 何故伝わらないのかと言えば、それはやはり「本を読むこと」という当たり前のようなこと、誰にでも可能で普段やっている筈のことが、実はほとんどの人にとって極めて困難だからではなかろうか。例えば『絶歌』を真実の手記として読んでしまうと、「懲役十三年」という長い文章をダフネ君が一読で記憶し、ワープロで正確に打ったことになる。そんなことはあり得ないだろう。しかしたいていの人はそんなことはあり得ないとは思わないのだ。このたいていの人の範囲が『右大臣実朝』の解釈においては、芭蕉、子規、斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明あたりまで拡大する。源実朝のいわゆる「万葉調」の歌は『金槐和歌集』の中でもそう多くはなく、太宰は敢えて滑稽で面白い歌を拾ったのだと主張すれば、私はほぼ全人類と敵対する。しかし理屈で考えよう。


おほうみのいそもとどろによするなみわれてくだけてさけてちるかも


 いや、われたものはさけない。それだけのことが解らない人が源実朝を手放しで褒めている。私と太宰だけが面白がっている。私にとって今や本を読むということは、本を読まない人たちから遠ざかり、本の中で生きることになりつつある。

[付記]

 江藤淳でさえ十五年前の曖昧な記憶で三島由紀夫の『豊饒の海』をスカスカと印象批評していたことに気が付いた。自分はこれだけ本を読んだと本棚を自慢している人に本当の読書は困難だろう。読破とか読了という言葉を使う人は、そもそも読書を苦痛あるいは退屈な作業として、本そのものからできるだけ遠ざかろうとしているだけではないだろうか。江藤淳は何故『豊饒の海』を読み返さなかったのだろうか。もしかすると江藤も読書嫌いの評論家だったのだろうか?



 この記事を理解したつもりでなおかつ私の本を買わない人間は矢張りこの記事が全く理解できていないのだ。そこには決定的な壁がある。本当に理解したならそれは殆ど驚きである筈であるからだ。
 小宮豊隆も江藤淳も柄谷行人も吉本隆明も蓮實重彦も島田雅彦も高橋源一郎も間違っていますよとだけかいているわけではなかろう。芭蕉から小林秀雄迄勘違いしているのだ。

 さあ、どうする?

 うごかなければこのへんてこりんなフランス語の人のような理解のまま死ぬだけだ。

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