小林十之助

近代文学2.0をやっています。近代文学1.0は終焉したそうですから仕方ありません。トン…

小林十之助

近代文学2.0をやっています。近代文学1.0は終焉したそうですから仕方ありません。トンデモ説ではない漱石論を書いています。近著『あなたの漱石読解間違っていますよ』『人類史上初夏目漱石の『こころ』を正しく読む』『夏目漱石は何故死んだのか』アマゾンで探してください。

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記憶の汚染が起きている 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む69

根本的な帰属の誤り  認知バイアスというのは誰にもある。過誤記憶というのもその一つであり、根本的な帰属の誤り同様頻繁にみられるものだ。  昨日私は、  という518ページの記述が間違いであることだけ示した。  それはかなり深刻な間違いであり、脳に深刻なダメージ(三日間寝ていないなど)があるのではないかと本気で疑っている。  それは520ページに書いてあることと付け合わせると、決して冗談でも大げさな話でもなくなる。私が彼らのうちの誰か、つまり平野啓一郎とそのゆかいな仲

    • とてもさみしがりや 芥川龍之介の『窓』をどう読むか①

      ――沢木梢氏(さはきこずゑし)に――、と献じられている。    沢木梢氏とはこんな人である。慶應義塾大学の教授になりたかった芥川を応援してくれたそうだ。結局なれなかったが、その感謝の気持ちが捧げられてゐるのであろう。  それにしてもこの『窓』という作品は奇妙なもので、言ってみればリアリズム小説としては成立しない、おとぎ話のような、それでいてどこか作者自身とも重ねられるような妙な味わいのとても短い話なのだ。  芥川作品の中ではほぼ唯一と言っていいと思うが、如何にもカフカ的

      • 集団催眠でもあるまいに 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む68

        ※閑院宮殿下 小さなミスの重なり  完全な悪ふざけには見えないが、いささか間の抜けた文章というものがある。内田百閒や井伏鱒二などの文章がそれである。間の抜けたというと悪口のようだが彼らの場合それが味わいである。平野啓一郎はそちら側ではなく岩野泡鳴に向かっているのかもしれない。小さなミスを積み重ねて大きな勘違いに陥ってしまう。  悲惨なのは彼の周りには適切なアドバイスをしてくれる者が誰一人おらず、彼が完全に裸の王様になってしまっていることだ。平野啓一郎の『三島由紀夫論』を

        • からつくや昨日碓氷に榾火かな 夏目漱石の俳句をどう読むか107

          親の名に納豆売る児の憐れさよ  川柳のようなリズムでさらりと解らないことが詠まれている。解説の人は解っていて、あえてなにも解説していないのかな?   本当にそうなの?  私にはこの「親の名に」の意味が解らない。「に」が解らない。場所、結果、方向、目的、状態、理由、相手、資格、強意……。  手段かな?  つまり「親の名で」、  たとえば「え~い、長太郎納豆いらんかね」と親の名を冠した納豆を十之助が売り歩くと。  いやしかしそれだと納豆売りの親子の名前を両方知ってい

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          誤り、抜け、漏れ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む67

           手短に言えば、夏目漱石の『こころ』が読めないものに三島由紀夫作品が読めるわけがない。平野啓一郎は確かスローリーディングとか言いながら夏目漱石の『こころ』を読んでいた筈だが、「私」と何某が何を呑んだのか、先生がKの頭をどの高さまで持ち上げたのか、あるいはまた鎌倉での海水浴で「私」と先生がどんな格好だったかといった細かい点を理解してはいないだろう。石原慎太郎が「物凄い」と言った三島由紀夫の凄みはそうした細部に宿る。 美しい幻  昨日八紘一宇について少し書いた。そのとき岡倉天

          誤り、抜け、漏れ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む67

          もう少し勉強した方がいい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む66

          タイで広東料理    五井物産の支店長は本多を広東料理でもてなす。  そういえばインドのホテルではベーコン・エッグを食べていた。  まだインド料理やタイ料理など日本人がほとんど口にする機会さえなかった時代のことではあろうが、そこにはタイ料理を一段低く見做す、差別意識のようなものが現れていまいか。  このことは本多の後のジン・ジャンに対する態度の中にも現れるかもしれないので、順番的にここに書き留めておく。  当たり前のことながらどこで何を食うかということで思想性が現れ

          もう少し勉強した方がいい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む66

          穴蛇を檀家に配る冬の川 夏目漱石の俳句をどう読むか106

          穴蛇の穴を出でたる小春哉  解説に「穴蛇は冬眠していた蛇」とある。  これは難しい。 穴蛇のちょいと出てみる小春かな  これなら解る。  しかし蛇の穴は見えても蛇がいるかいないかは、棒きれか何かで突いてみなくては確かめられない。  つまりそこに穴だけあっても「穴蛇の穴を出でたる」かどうかは厳密には解らないわけだ。すると漱石はいかもの食いをしようと蛇を探して歩いていたのであろうか。  それも少し気味が悪い。  句としては「穴蛇」の「穴」なしでもいい気もする。  出

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          日本人の醜さ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む65

          七歳なら自分でできる    本多にはやはり、危険な匂いが漂う。  七歳の姫のおしっこを手伝いたいとは、いささか不埒な認識者ではないか。一体どこを認識しようというのか。おしっこの後はどこを拭こうとしているのか。この本多の奇妙さについて平野はまだ触れようとさえしていない。たしかそれはどこにも書いてなかったはずだ。  七歳なら抱えあげなくとも自分でおしっこはできるだろう。  この後姫は裸になり川で水浴し、本多にお腹を見せる。姫の脇腹には三つの黒子はなかった。  認識者本

          日本人の醜さ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む65

          平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む64兼 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか④

           芥川龍之介は平野啓一郎に何が言いたいのであろうか。  金閣寺は天皇である?  書かれている範囲では決してそうは言えないのだと芥川龍之介は平野啓一郎に言いたいのではなかろうか。勿論芥川は平野を名指ししていない。しかしここで言われているロジックは恣意的なものではない。一つの仮説を前提にしてしまうような、そうしたすべての言説は芥川の批判から逃れられない。  少なくともそこを胡麻化して四千円近い本を売りさばこうという姑息さには呆れかえるしかない。功を貪る、まさにそうした現実が

          平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む64兼 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか④

          菱川の正体 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む63

          菱川の正体  平野が菱川を三島の「自己戯画化」と見做している点に関しては既に述べた。しかしその醜さが何ゆえのものなのか、『鏡子の家』ではお互いが干渉しないように平和に棲み分けられていた三島由紀夫の分身が何故衝突せねばならないのか、突き止めてはいないように見える。「贋物の芸術家」「実作をせぬ芸術家崩れ」と罵られているのが三島由紀夫自身であるとするならば、杉本清一郎と山形夏雄は何故罵り合わなかったのか。  深井峻吉は飯沼勲となって散ったように見える。敢えて言えば舟木収はまた松

          菱川の正体 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む63

          古池や冬の日残る枯れ尾花 夏目漱石の俳句をどう読むか105

          蒲殿の愈悲し枯れ尾花  漱石がまた歴史ミステリーを仕掛けてくる。本当に伊予というのは訳の分からない土地柄で、あちこちから伝説を引っ張ってくるのが生きがいなのであろうか。  新田義宗の墓、これは仕方ない。  三好秀保は漱石の責任だ。  しかしこの句には「範頼の墓に謁して二句」と添えられている。源範頼は……確かに伝説があるな。  解説には諸説が紹介されている。  漱石は果たしてどんな感じだったのかな?  まず蒲殿と詠んでいるので、源範頼に関しては何かしら知っているわ

          古池や冬の日残る枯れ尾花 夏目漱石の俳句をどう読むか105

          根拠もなく文章がまずい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む62

          根拠は何か    三島はなぜ、あのような死を選んだのか――答えは小説の中に秘められていた。……こう宣伝されて売られている本が仮にあったとする。それならばその本には「三島はなぜ、あのような死を選んだのか」という問いの答が書かれていなければならないと考えるのは当然のことである。つまり生首の根拠が書かれていなければならない。  では実際はどうか。  末げん、村田英雄、編集者すっぽかし、中古のコロナ、唐獅子牡丹、富士の見える場所、七生報国、日本、三十分、いずれの説明もない。

          根拠もなく文章がまずい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む62

          鏡花の弟子? 牧野信一の『嘆きの孔雀』をどう読むか⑥

           これは「私」が美智子と艶子さんの二人に向かって「そういう話」をしているのか、本当に四人がそういう世界に入り込んでいるのか、もうどちらとも判断できない状況になってきた。  最初は明らかに「私」が美智子と艶子さんの二人に向かって「そういう話」をしていたはずだった。ところが美智子がお姫様に話しかけたところ、いや孔雀が現れた時点で我々は既にこの物語の中に引き込まれていたのである。そもそも空間移動ができる時点でここは美智子の部屋ではない。  しかしそう目くじらを立てる話ではなくて

          鏡花の弟子? 牧野信一の『嘆きの孔雀』をどう読むか⑥

          贋物の批評家は贋物の批評家に気がつかない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む61

           時々本物の作家は何十年も先の未来を見越して、おおよそくだらない批評家に渇を喰らわすことがある。夏目漱石が蓮見重彦にそうしたように、三島由紀夫は平野啓一郎に、「バンコックの寺は七百あつた」と言ってみる。  金閣寺が天皇なら、この大理石寺院(ワツト・ベンチヤマポビツト)はハラーマ八世なのかね?  三島由紀夫ならそう問うのではないか。  この時ラーマ八世、アナンダ・マヒドン陛下はスイス留学中、第一摂政アチット・アパー殿下は飾り物にされ、第二摂政プリディ・パノムヨンが実権を握

          贋物の批評家は贋物の批評家に気がつかない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む61

          凩に馬やり過ごす月夜哉 夏目漱石の俳句をどう読むか104

          凩に牛怒りたる縄手哉  雨風の自然現象や世界の成り立ちを生き物がどう受け止めているのかは謎である。猫はどうも自動車に挨拶しているような気配がある。しかし自然現象に関してはおおむね仕方のないものとして理解しているように見える。  牛が凩に怒っている場面というのは見たことがない。 あまた度馬の嘶く吹雪哉  このように馬が吹雪に嘶いていたので、風に牛馬が亢奮するという場面は昔はあちこちで見られたことなのかもしれない。  昔と言ってもそれは昭和初期、三十年代までか。  三島

          凩に馬やり過ごす月夜哉 夏目漱石の俳句をどう読むか104

          頑張っていた 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む60

          三島の戦後  この文章には正しい点が一つもない。『金閣寺』における金閣寺は絶対者でもなく天皇でもない。寺はたくさんある。明治天皇は寺と縁を切った。天照大神は伊勢神宮に祭られている。伊勢神宮は金閣寺ではない。金閣寺は天皇のアレゴリーとしては描かれていない。平野は金閣寺が天皇の比喩であるという仮説をいつのまにか前提にして『金閣寺』を読んでしまい『金閣寺』を天皇との一体化を断念する話として読んでしまっていることになる。一個人がそういう解釈をすること自体は責められることではないが、

          頑張っていた 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む60