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「自分のために書く」のは、自分の言葉を見失わないため

自分のために書いて、結果的に誰かのためになったら、それって最高じゃないか。

これは私がnoteを書くとき、心のなかでいつもつぶやいていること。


あくまでも、書くのは自分のため。
その先に、私みたいな誰かがいる。

決して、誰かに向けて書く気持ちが自分のために書きたい気持ちよりも大きくならないこと。

あえてそんなことを意識して、私は自分の言葉を楽しむためのバランスを取っている。私はライターだけど、書くのは自分のためでもあっていいと思う。

今日はそんな話を書いてみたい。


私は自分のライフワークとして「自分なりの書き方、探しに行こう。」という場所をつくった。ご一緒する方を募集するときからずっと、一貫して、「書くのは自分のためでもあっていいと思う」と、私は伝えるようにしている。

思わぬ感銘の声や、安心感を抱くような反応をいただくこともしばしば。伝えて続けてよかったと、毎回思う。

数は多くないけれど、でも確実に挙がる確かな声を聞くたびに、「自分のために書く」選択肢を、私以外の誰かもいつのまにか見失いそうになるんだと気づいた。


そもそも私は、「書く」って2種類あると思っている。「自分のために書く」ことと、「誰かのために書く」ことの2種類。

後者に挙げた「誰かのために書く」のは、分かりやすく言えばライターを指す。私が普段、生業にしている仕事。肩書のひとつであるインタビューライターは、必ず、自分以外の誰かのために書いている。私はそれがとってもやりがいで、だから続けられている。

私は複数の場所でライターの勉強をしてきたけれど、共通しているのは「ライターは、届けたい相手に届く文章を設計する人」であるという認識。

仮に今、書くことが好きで、「ライターになりたい!」と思って勉強している人がいるとしたら、文章を学ぶ前提はきっと「自分のため」ではないはず。だってそもそも、ライターは自分以外のために文章を書く仕事なのだから。


私は、この「前提」を忘れないようにしている。ライターが誰かのために文章を届ける仕事なら、ライターの肩書を外したときは自分のためにも書いたっていいじゃないか。そうでないと、自分から湧き出てくる言葉や感情を見失いそうになる。

誰かの言葉と同じくらい、私は私の言葉も大切にしたい。そこに優劣なんて、私のなかにはない。

だから私はあえて唱える。「文章は、自分のために“も”書いていい」と。そうやって毎回認識してから、自分のための文章を楽しむようになった。


文章が好きな人ほど、ライターという仕事に興味がある人ほど、「書く」が2種類あることを忘れてしまいがちな気がするのだ。文章を書くとき、「誰かのためでないといけない」「有益でないといけない」なんて、誰が決めたのだろう。

案外、自分で勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。と、私は思っている。少なくとも私が育てている場所はライター養成所ではないから、自分の表現方法として「書く」がフィットする人とは、これからも一緒に書いていきたい。


あと、「自分のために書く」感覚をどこかに置いてきてしまっている人も多いなあと、勝手ながら感じることもある。

「自分のためにも書いていいんですよ」と話したときに瞳をキラキラさせていた人に、「この文章、なんで書きたいって思ったんですか?」と伺ってみると、返ってくる答えはこんなふうだった。

「〇〇な人に伝えたいから」
「〇〇を知ってほしいから」

あんなに目が輝いていたのに、どちらの理由も、「自分のために書く理由」ではない。ちなみにご一緒している方の9割はこういったお答えをいただいてスタートしているから、多くの人は誰かに何かを伝えたいんだろうなあなんて思う。


「自分のために書く」私の感覚をあえて言葉にしてみると、こうだろうか。

「なんで書きたいと思ったのか」その理由の一番手前に、“自分が書く理由”を置いておくこと

「一番手前に、“自分が書く理由”を置いておく」のが、私としてはポイントだったりする。

誰かのために書いてはいけないとは言わない。でもまずは、自分が書く理由を自分の目の前に大きく置いておく。一面に広げた大風呂敷に書き記しておくつもりで。

その風呂敷をちらっとめくったとき、「誰かに何かを伝えたい」があるのなら、自分の思いを大切にしたまま言葉を紡いでいけそうな気がする。


今年に入ってからの私のnoteは、「記録を残したいから」「〇〇な書き方を実験したいから」のシンプルな2つの理由で書いている。それ以外、正直あまり考えていない。勝手に書いて、勝手に楽しんでいる。それでもいいじゃん。自分のnoteなんだからって、そう思っている。

「勝手に書いて、勝手に楽しむのもいい」と思えるまで、実はずいぶん時間がかかった。初めからこんなことを思っていたわけではない。私にも自分の言葉を見失った時期があって、もうそんな状態にはなりたくないと思ったから、今があるのだ。

先にも書いたけれど、私は誰かの言葉と同じくらい、私の言葉も大切にしたい。noteは私の言葉を大切にする場所。そういう位置づけになった。


当たり前ながら、ライターでなくてもブログやnoteは書いていい。文章は自分のためにも書いていいと、心から思う。

でも本音を言うと、自分の言葉を、自分が一番信じてあげたいと思っているだけなのかもしれない。


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