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長野県上田市と秋田県由利本荘市の不思議なご縁

(はじめに)

最近、長野県上田市(信州上田)と秋田県由利本荘市(羽州亀田)との間に、不思議なご縁が3つあることに気が付きました。その3つは、(1)「日本のロケットの父」糸川英夫先生が結ぶ不思議なご縁、(2)秋田県の由利本荘市の由利の起源は信州、(3)真田幸村の娘「お田の方」が由利本荘市亀田に建てたお寺「妙慶寺」、です。これらは、信州の上田市民にも、秋田県由利本荘市の市民にもほとんど知られていないことです。皆さんにもとても興味深いことと思いますので、これらご縁をそれぞれ見ていきたいと思います。

(1) 「日本のロケットの父」糸川英夫先生が結ぶ不思議な縁

以前より同じ学会で友人になった秋田県立大学のN先生が、最近、私にこの大学の本荘キャンパスで特別講義を行うようにと、私を講師として呼んでくれました。そのN先生が今住んでおられる由利本荘市のことを、私は全く知らなかったので、由利本荘市に行く前に、その歴史や見どころを調べてみました。それで、そのとき私は初めて知ったのですが、由利本荘市の道川海岸は、日本最初のロケット発射基地として、糸川英夫先生がロケット発射実験を行った場所として有名だというのです。糸川英夫先生は戦前、ゼロ戦のハヤブサの設計をされていて、戦後は、日本で最初にロケット開発をされた「日本のロケットの父」といわれている有名な方です。現在(2019年)、小惑星のリュウグウに向けて飛行を続けている人工衛星ハヤブサ2ですが、これはハヤブサ1と同じく、糸川先生の業績をたたえて名づけられたものと聞いています。
 非常に興味深いことに、信州上田市も実は、糸川英夫先生と大変ご縁があります。私が今住んでおります長野県上田市には平成の合併により上田市になった隣町の丸子町というのがあります。その今は上田市丸子町には、信州国際音楽村という音楽施設があります。そのすぐ近くに、糸川英夫先生が晩年移り住んでおられた自宅が残っています。今は地元の絹織物などの民芸品店になっていますが、その店の前には、写真のように小さなロケットの模型が今も飾られています。

写真1:長野県上田市丸子町の糸川英夫旧宅とロケットの模型ー1

写真2:長野県上田市丸子町の糸川英夫旧宅とロケットの模型ー2

N先生の住んでおれる秋田県由利本荘市を訪問したときには、ぜひ、道川海岸に立つ日本最初のロケット発射基地の石碑のところへ行ってみたいと思い、N先生に車で連れて行ってもらいました。

写真3:秋田県由利本荘市道川海岸に建つ「日本ロケット発祥記念之碑」

さて、さらに調べてみると、由利本荘市とは、以下のような大変興味深い昔からのご縁も信州とあることが分かりました。

(2)秋田県の由利本荘市の由利の起源は信州

私は、今まで全く知らなかったのですが、秋田県の由利本荘市の由利の起源は信州だというのです。
その理由は、信州佐久郡の大井氏は、出羽国(明治初期の羽後国)由利郡の由利十二頭になったからです。小笠原氏族の流れ大井氏というのは、小笠原長清の七男朝光が、承久3年(1221年)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井荘の地頭となって土着したのが起源とされています。また、由利十二頭というのは、軍記物には応仁の乱(応仁元年(1467年))のころに、信濃国佐久地方から、出羽国の由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠しました。出羽国由利郡の由利十二頭のほとんどが信州出身の大井氏の庶流(分家)を称しています。
小説の世界で有名な真田三勇士のひとり『由利鎌之助』の、名前「由利」の起源は信州にあり、秋田県の由利本荘市の由利の起源も、このように信州につながることがわかりました。このようなことは、全く信州上田の市民から聞いたことがなく、大変、私は驚きました。

(3)真田幸村の娘「お田の方」が由利本荘市亀田藩に建てたお寺「妙慶寺」

 それだけではなく、さらに約150年後に「お田の方」という真田幸村の娘が出羽国由利本荘に落ち延びてそこで亀田藩の藩主の側室(のちには後妻)となって生き残っていたということも知りました。
丁度NHKの大河ドラマで「真田丸」をやっていたころに由利本荘市を訪ねたので、N先生が、気を利かして亀田藩の跡地に連れて行ってくれました。そしたら、真田の家紋の六文銭の旗が多数たなびいていました。由利本荘市で六文銭を見るとは思っていなかったので、真田の本拠地の上田市民としては、本当にびっくりしました。真田幸村の血が秋田の由利本荘市に残っているとは私は今までまったく知りませんでした。
「お田の方」は、信州上田の真田幸村の五女で、元の名は「なお」といい、後に「お田の方」と呼ばれています。この「お田の方」は、極めて数奇で希有な血筋です。「お田の方」の母親「お菊(隆清院)」は豊臣秀次の娘であり、「なお」は慶長9年(1604年)、真田幸村とこの「お菊」との間に生まれました。生後1ケ月のとき(文禄4(1595))、秀吉による秀次一家一斉処刑を免れた数少ない秀次の血筋です。また、「なお」の父親、真田幸村は、大坂夏の陣で戦死し、その子孫は滅亡の運命にありました。「なお」は大坂城落城時(慶長20年(1615年))、曾祖母である瑞龍院のもとへ避難していて、生き残りました。両親ともに、極めて数奇で希有な血筋の人です。

写真4:真田幸村の娘、亀田藩藩主の妻、お田の方の立像

そして、長じて、出羽国亀田藩(現在の由利本荘市)第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室(=後妻)となります。徳川幕府に憚って、真田を省略して田とし「お田の方」と呼ばれるようになりました。亀田藩内にある「妙慶寺」は、この「お田の方」が建立したお寺で、訪ねてみると、真田幸村の位牌があり六文銭の家紋も見られます。

写真5:顕性山妙慶寺の案内板

写真6:顕性山妙慶寺に掲げられている六文銭

(おわりに)

以上は、このような長野県上田市(信州上田)と秋田県由利本荘市(羽州亀田)の不思議なご縁は、上田市民にも由利本荘市民にもほとんど知られていないことですが、とても興味深いです。

*冒頭の写真は、由利本荘市で見た「東北地方の真田ゆかりの地」3ヶ所が書かれている顔出し看板

2018年 (平成30年)12月13日 随筆
2019年(令和元年)6月15日 加筆
2021年(令和3年)11月12日 加筆
信州上田之住人和親

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