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細田守『おおかみこどもの雨と雪』(2012)を久しぶりに観た



いつもながら、観終わったあとに数時間かけてぶわぁ〜〜っと吐き出したメモの集積なので、あっちを書いてはこっちを書き足しては、の繰り返し……で、構成とか順番とかまじでグチャグチャで読みにくいす。すまんな。


細田守をちゃんと観返そう企画の第2弾ということで、第1弾の『時をかける少女』(2006)に続いての鑑賞。
時系列的には次にみるべきは『サマーウォーズ』(2009)だろうけれど、サマウォはもう10回くらいは観ているのに対して、本作は、人生ベスト映画のひとつに挙げているにしてはそんなに観返してこなかった。今回で4, 5回目の鑑賞だと思う。

まず、序盤の大学生編(東京編)について。
劇場公開時に中学生だったので、最初に観たときは、「大学」の授業の仕組みを知らず、大沢たかお(「おおかみおとこ」と韻が踏める?)が一橋の学生でもないのに講義に潜っていることや、出席カードを授業終わりに教壇に提出する形式であるのに後ろから帰っていたことで花に追いかけられたこと、花に声をかけられてなぜ大沢たかおが言った「俺、ここの学生じゃないから。……迷惑なら、もう来ない」という台詞の意味、それらが何も理解できなかったことを覚えている。部外者でも自由に入っていいのが大学だなんて、小中学生の頃のじぶんには相当な驚きだったろうし、そもそも自分にとって「大学」やその講義・教室の原初のイメージが『おおかみこども』の序盤にあったのだな、ということに改めて気付いた。自分が実際に大学生になってからこの映画を観ていなかった、ということだ。
それから、大沢たかおと付き合って妊娠出産して花は結局大学を休学・中退するし、雨は小学校を不登校になるし、そういう「社会」からドロップアウトしてそれでも生きていく人物が描かれているところは、すごく心地がいいというか、自分の人生の伏線がここですでに張られていたのか~~となった(パラノイア)。

絵コンテはずーっとキマりきっていてヤバすぎる。ほんと引き固定カメラの同ポジション好きだな細田守。
花とおおかみおとこが出会ってセックスして子を作る一連のシーン、うおおおおロマンティック・ラヴ・イデオロギー最高!!!!!って感じでマジでウケる。こうして観返してみると、やっぱりまったく意味がわからない。なぜ産んだのかも、そもなぜベッドシーンで狼男状態なのかも(そりゃあ画的に映えるからでしょう)、なぜ大沢たかおが子供と妻のために頑張って野鳥や野生動物を捕まえようとするさま(ギャグだ)をあろうことか二度も繰り返すのかも、そうしてなぜ死ぬのかも、何もわからない。しかし、それは、この映画への手垢のついた批判──「なぜ避妊しなかったのか」「もっと考えて産め」「なぜ病院や児相や行政に頼らないのか」──などではまったくない。こうした批判はすべて完全に正しいが、同時に、こうした点で本作を批判できると思っていることは完全に間違っている。
結局、本作において、なぜふたりが出会って「家族」になってふたりを産んでしまったのか(そしてなぜ「父」は退場したのか)、その理由が圧倒的に理解不能であることは、本作の描く特殊事例のみならず、例外なくすべての「男女が出会って恋に落ちて同居して結婚して生殖して出産して子育てして……」という、人間社会において規範化されて何万年もおこなわれてきた「スタンダード」かつ「崇高な」行為の理解不可能性の告発である。──「なぜ避妊しなかったのか」「もっと考えて産め(つまり、産むな)」は、この映画の馬鹿なカップルにたいしてだけでなく、あらゆるカップル──「両親」になってしまうカップル──に言えることだ。言わなければならないことだ。保守的なイデオロギーを貫き通したことで、本作は結果的に、稀代のラディカル・リベラル映画性を、反出生/生殖主義映画としての強度を獲得している。

本作が提示する、「なぜ子供をつくるのか」にたいする回答は次のとおりである。
────細田守の絵コンテと、高木正勝の劇伴がめっちゃ良くて感動的だから。
そう、なにも理由になっていないのだ。子が生まれさせられることに、なにも合理的な理由などない。それでも、この映画を観れば──あなたの生を「しっかり生きて」みれば──そこにまぼろしの説得力を認めてしまうのだ。
この「なにも理由になってないけど説得力がある」さまが、本作の本質的な美点であり、芸術的価値である。

本作の掲げる「子供が生まれることに理解可能な理由などない」という思想/態度は、そもそも「雪」と「雨」という、《天からの恵みとして与えられるもの》を含意する名前(名前こそ親が子に強制的に与える最たるものだ)が作品タイトルに冠されていることにも象徴されているし、言うまでもなく、序盤で大沢たかおが花に名前の由来を聞いたときの返答──「何も植えてないのに庭に勝手にコスモスが咲いてきたから」──で明確に宣言されている。

花の造形・描き方がまじですごく(意味わかんなく)て、じぶんはどうしても花を(家父長制が押しつけるところの)「母性の象徴」とかには思えず、もっとやばいなにか、としか言いようがない。ほとんど化け物で(夫よりもずっと!!)、「実質こっちが真の『バケモノの子』じゃんww」と内心笑いながら観ていた。だから、わたしにはどう頑張っても本作を「子育てモノ」とか「"強い女性" 礼賛モノ」には見えなくて、もっと深く神話的におぞましい、人類そのものの業(=システム)をえぐり出しているような作品だと観てしまう。

(えっ、深読みしすぎっ? 細田守がインタビューで「人が子供をつくるのは、当たり前のことと簡単に思ってきた。しかし結婚してからは、都会で子供を育てるのは公的な支援など環境面で苦労があり、だからと言って田舎暮らしで楽ということもなく同世代がいないという苦労があることに気づかされるようになった。そのがんばりを映画にしたかったのだ」と話してる? しるか〜〜〜〜!)

それと同時に、おおかみこども達が生き生きと描かれる段階に入ると、やはりわけもわからずずっと泣いていた。まだ「社会」の規範に抑圧されていない野生児の雪をみると涙が溢れてしまう。一説によると、この涙のワケは、「生まれさせられてこの子たちはなんてかわいそうなんだ」という憐憫のためだったとも、あるいは暴走して「生まれさせられて僕はなんてかわいそうなんだ」という自己憐憫のためだったともいわれている。

ガンダムの富野由悠季監督が本作を激賞して「本作の前では、もはや過去の映画などは、ただ時代にあわせた手法をなぞっているだけのものに見えてしまうだろう」と言ったらしいことは有名だけれど、たしかに今回観て、この作品は人類史上でも稀有な傑作だと思った。というか、「人類史」自体をテーマにしている創世記的な作品として読める。最後に「世界が生まれ変わった(かのような朝でした)」と言ってるし。。「ふたりを育てた12年間はまぼろしのような時間でした」的なこと言ってるし。。。

すごく当たり前のことをちゃんと口に出して確認することは大事だから書いておくけど、本作はほんっとにこれでもかというくらい二項対立を乱立させていく映画だなぁと痛感した。人間/おおかみ、子供/大人、社会/自然、都会/田舎、男性/女性……。
二項対立というか、二股にわかれた、三叉路? そう、『おジャ魔女どれみ ドッカ~ン!』第40話「どれみと魔女をやめた魔女」でも『時をかける少女』でもこの作品でも、細田守はずっと(記号としての)三叉路を描いている映像作家なのだな~~と思った。
こないだ見返した『時かけ』では、真琴という女子主人公が「現在/現実の象徴」の男子(功介)と「未来/理想の象徴」の男子(千昭)とのあいだで右往左往する……というか、真琴自身は両名に恋愛感情を向けて悩んでいるわけではないけれど、映画としては、約100分の尺のなかで、千昭パート→功介パート→千昭パートという風に振り子のように注目する対象が揺れ動く構成になっていた。それに対して、本作では、最終的に「人間/社会」の道を歩む雪と「おおかみ/自然」の道を歩む雨が、よりミクロなスケールで(=カット/シーン単位で)交互に画面の中心を占めていくスタイルを採っている。いずれにせよ、三叉路で足を止めて煩悶するのは彼らではなく第三者=女性主人公の花である。そういや、農家のおじちゃん二人組から農法を教えてもらうくだりでも、コメディ調で「対照的な2者間(三叉路)で右往左往する主人公」の図をやっていたな。

・「きときと」が流れる雪原スキーからの雨の水没覚醒シーンは2時間の尺のちょうどほぼ中間地点に置かれていて、半分を境に雪と雨の「おおかみ/にんげん」の道が入れ替わる、きわめて幾何学的な構成になっているんだなあと感心した。雪原の山中の川ということであからさまに雪/雨-要素の混交だし、雨が川に落ちるのは石の橋から足を滑らせてのことである(当然、序盤の父親の死──東京の街中の川と橋──が連想される)が、俯瞰で映す画角がちょうど左右反対であるとか、わりとモチーフの配置も教科書的だなぁと思いながら観ていた。イニシエーション!

・あんまり語ってないけど、まじで細かい台詞/演技指導レベルでの脚本と作画演出もめちゃくちゃ良い。これも多すぎて逆に挙げられないけど、引っ越してきたばかりの雨の「もう一回大丈夫して?」とか、雪の家で花にメロンソーダをご馳走してもらってる草平くんの、椅子には深く腰掛けずにキョロキョロしてる様子とか・・・(いや、もっと良い例がたくさんあったはずなんだ・・・)

・「おおかみこどもの雨」と「雪」。だから「雪と雨」じゃなくてこの順番ってのもあるのね(今更)。語呂の問題もあるだろうけど。

・川に落ちたあとの興奮してうわ言を発している雨の見てくれは『オマツリ男爵』のカッパを思い出した。

ずっと絵コンテ/演出が完璧ではあるのだけど、特に感動したシーン/カット。
いちばんはやっぱり、小学校に入学した雪と雨の進学していく数年間を、1,2,3..年の教室が並ぶ廊下の水平往復パンで表現するカット。細田守お得意の水平構図で横にパンしていって物語る演出は例えば『サマーウォーズ』の縁側で手をつなぐカットも思い出すけど、本作では何度も右に左に往復して雨と雪の教室/学校での様子を映していく手つきが鮮やかすぎてなにもいえん。時間(ストーリーテリング)と空間(映像表現)の扱い方がうますぎるだろ……。

それから、ちょっとさかのぼって、雪の小学校入学式の日の初めての登校シーン。「おみやげみっつ、たこみっつ」と口ずさんでは期待と嬉しさに跳ね回る雪の家→バス停→バス内……と続くカットの連鎖がうますぎて降参した。画面内での雪の位置や向きがカット間でバランスをとるように小気味よく配置されていて、最後にくる山あいを走るバスの空撮カットまで、その前のバス車内カットで雪が画面左側から左を向いて窓の外を眺めていた反動として、山あいのバスを画面右に走らせているのが完璧だった。こうして文章におこすと「ただ左右交互に配置してるだけじゃ~ん」って感じなのだけれど、実際に観るとまじでうますぎる。テンポも重要だよなぁ。
あと、あんま覚えてないけど、前半東京パートで、児相職員がアパートまで押しかけてきてもう大変~都会には逃げ場がない~的な局面でたしか差し挿まれた、都会の灰色がかった街並みや路地を素早く数カット並べて切り替えていくシーンもめっちゃ良かった。固定カメラしか勝たん。。。
韮崎のおじいちゃんに花が正対して礼を言うシーンの真正面カット2連鎖→水平構図(夕焼け逆光)の流れもすき。基本的に引きの構図で進むので、このシーンのように真正面から人物を撮るカットは相対的に迫力を帯びる。(シンリンオオカミや熊と相対するシーンなども同じ構図演出。)
他にも無数に「おおっ!」となったカット/シーンはあった気がするが、ひとまずこんな感じ。

基本的に固定カメラでのカットで進むので、カメラを振っているとそれだけで特別感が出る。ところどころ、地味ぃ〜なパンやズームイン/アウトを使ってるところもあった。例えばラストカット、夫の免許証仏壇の前に座って、山から聞こえる狼の雄叫びを聞く花のカットはほんのすこしズームアウトしているが、これは「ふと遠くから聞こえる物音に耳をすます」という花の主観を表現したズームアウトだと教科書的に理解ができる。ただ、このように簡単に意味を了解できないパン/ズームもあって、「なんでここ動いてんの〜〜〜!?」といちいちリアルタイム解釈ゲームが発生するのが面白かった。むろん、これはわたしの鑑賞態度がズレていて、全てのパン/ズームに特別性を見出すほうがおかしく、むしろ引き固定カメラのショットがベースラインとして無徴化しているほうが特殊であろう。普通は逆に「なんでこのカットこんなに引き固定カメラなの!?」といちいち驚かなければいけないのに、細田守作品では慣れてしまうのだ。

・「狼人間」というファンタジー要素は、もちろん上述したような社会と自然の二項対立の文脈でも考えられるけど、よりアニメーションの表現論のレベルで考えると「連続的に徐々に変身していく」さま(序盤の大沢たかお→おおかみおとこシーン)は、ほんらい不連続な静止画を並べて擬似的に連続性を担保する(錯覚させる)アニメーションの原理からしても、わりと必然的な帰結に思えるというか、いいなぁ、と思った次第であります。本作がそうした連続的な変身バンクを描いた最初のアニメではもちろん無いでしょうけれど。だからこそ、終盤の雪のカーテン越しの、連続性と不連続性の狭間でエモーショナルが頂点に達するシーンの破壊力はとてつもないのですよ。
ちょっと違うけど、「身体が透けていく」演出も、アニメ表現のひとつの本質(そこに実態がないこと)をわかりやすくごろんと差し出している点では近い(『千と千尋の神隠し』とか『天気の子』とか最近みた『フラクタル』とか)。

あとは、やはり「新川自然観察の森」でのシンリンオオカミを眺めるシーンの静謐な雰囲気は異様だった。この感じ、なんか最近見覚えあるぞ・・・?と思ったら『時かけ』の美術館で「絵」を眺めるシーンだった。(「絵」といえば、同じく「新川自然観察の森」施設内の自然のイラストを眺めるシーンも2, 3回あった。)
細田作品に見られる、こういう、静かな空間で、檻の柵/ガラス壁のむこうがわの「何か大事な存在」を眺めるシーンが、作品全体の空間のなかでもある種の特異点のように佇んでいて、これなんなんだろうな~~といっつも考える(わからない)。なんらかのオブセッションだとは思うんだけどなあ。

やっぱり思ったのは、ラストの、山中で行き倒れた花を雨が駐車場(?)に移動させてからの親子の別れ(「しっかり生きて」「わおーーーーん」)なシーンは特に感動もしないし、好きでもない。その前の雪&草ちゃんの教室カーテン変身シーンが良過ぎてクライマックスとして十分すぎるので……。このシーンは正直なくてもいい。(さっきいった通り、創世記的な読みのためには必要なシーンなんですけどね)

教室の窓を開けてカーテンがなびくなか、何年間もずっと言えないで罪悪感を抱えていた「秘密」を異性の同級生に打ち明けるって・・・『ちはやふる』の太一の告白じゃん!!!と「気付いて」しまってびっくりした。なーんだ、全部つながってるんですね〜〜

・全体的に相米信二『台風クラブ』(1985)のオマージュというかリスペクトは多い。夜の学校/教室シーンは言わずもがな、その前の、ふじいそうへい君にケガをさせてしまった花が騒然となった教室に戻ってくる(がすぐに出ていく)シーンもそうだし、あと、成長した雨と雪が家のなかで姉弟喧嘩をして暴れまわる(雨が雪を追いかけ追いつめて、雪はなんとか風呂場の扉を閉めて閉じこもる)シーンは、台風クラブの夜間校内ストーカーのシーンじゃん!!!と閃いた。

・雪が草平くんに怪我させて花が学校の職員室?校長室?に呼び出されたシーン、『時かけ』で同級生の友梨が怪我して保健室にいるシーンと雰囲気がすごく似てる。雪は怪我させた側だけど、無言で座ってうつむいているさまはかなり酷似だ。保健室にしろ校長室(?)にしろ、学校空間のなかでも異様な雰囲気のある部屋ってあるよな〜〜。少女キャラと「怪我」(する/させる)という要素にもなにかオブセッションがあるのか。

東京編でも富山編でも花の自宅の本棚が映るシーンではいちいち一時停止して判別できるかぎりラインナップを確認した。『クローディアの秘密』とかちくまの尾崎翠作品集とか、『おおかみこども』を前に観てからのここ数年で読んで好きになって自宅の本棚に並べている本が幾つかあって感慨深かった。(履歴書シーンでも一時停止した限り花は社会学科だった)

今回久しぶりに観返して、『おおかみこどもの雨と雪』という映画は、これまでの自分の人生の諸要素が合流してすべて収束していくような印象と、同時に、ここから「今の自分」の多くの要素が生まれ出でているような印象の両方を受けた。なので、どうせ、これからの自分の人生もここに収束していくのだろう。・・・えっ、ど田舎の山村で隠居生活はじめるってこと!? ……まじかぁ







『時をかける少女』の感想はこっち。


最新作『竜とそばかすの姫』の感想はこちら(これ書いたあと、舞台となった高知県の限界集落に聖地巡礼しに行って、高知駅の最寄りの映画館で2回目の鑑賞もしました。ボロクソいってるくせに!!!)。

そういや、『おおかみこども』の暴風雨の夜教室カーテン越しシーンで、「水滴と汚れがリアルに描かれた窓」が数秒間映るんですが、そこで「あっ、『竜そば』終盤の夜行バスのシーンの窓とおんなじだ!」と気付いてテンション上がりました。2回観た結果、あのバス車窓(高速道路のライトが断続的に過ぎ去る)長回しカットが竜そばでいちばん好きかもしれん……となったので。




細田守の長編アニメ映画デビュー作『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』の感想はYouTubeに投稿したラジオで語っています。


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