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家族に歴史あり 〜1番近いのに知らないもの

今年のお正月は、いつもの見知った風景ではなかった。

いつもなら、静岡にいる父方の祖父母の家に行って年を越す。
新年は親戚が入れ代わり立ち代わりこの家に挨拶にくる。おばあちゃんは6人姉妹だったので、孫まで入れるともう大家族だ。

物心ついた頃から、ひっきりなしに挨拶に来る親戚のおじちゃんおばちゃんの間で遊ぶ風景が「僕のお正月」だった。

「このおじちゃんは、おばあちゃんの◯番目の妹の子供でね・・・」と言われても、結局誰が誰だか分からないまま、お年玉をもらって、気がついたらお年玉をあげる歳になっていた。

でも、そんな風景は今年はない。

東京の病院に就職し、年末年始もコロナ患者を何人も見てきた。
孫と同居していたり、帰省をきっかけに感染したお年寄りも何人もいた。
そこに祖父母の顔が自然と重なる。

何度も誘われたが、今年は到底帰省する気分になれなかった。

電話だけはしたいな、、、と思っていたら、向こうもそう思っていたらしく、当直のあとにスマホを見ると着信履歴がぎっしり。
一息ついて、電話をかけてみる。

「おお、かけるか。元気か?」

僕がいないと少し落ち込んでいるかな、と心配していたが不要だったようだ。
去年はいとこに子供ができて、初めてのひ孫にメロメロらしい。コロナ対応に追われる孫を心配してくれてはいるが、電話越しの声は弾んでいる。

「まだまだ元気だね。おじいちゃん達の話は去年いっぱい聞いたし、いつでもぽっくりいって良いんだよ」

そんな冗談を飛ばしながら、1年前の正月を思い出していた。僕が祖父母に対する考えも、祖父母が僕に思うことも、あれから確実に変わった気がする

楽になった、という表現も良い。


2020年1月

医師国家試験1ヶ月前。

「今年は帰らないで勉強しなさい」
と言われて大学の勉強会室に残り終わらない問題集と奮闘していたが、同室の勉強仲間はみんな帰省してしまっていた。

1人の勉強にはすぐ甘えが襲ってくる。リフレッシュだって必要だ。就職したらもう帰省できないかも・・・

言い訳を積み上げて、気がついたら新幹線に飛び乗っていた。

「今から行くから」と道中で伝えた。
急な帰省にも関わらず、祖父母は温かく迎えてくれた。

あー、これこれ。
手作りのおせちを食べて、近所の小さなお稲荷さんに初詣をして、濃いめのお茶を飲む。
毎年訪れるこの風景。大好きだとは思わなかったが、信じられないくらい体に染み付いていることに気がついた。

急に思い立った帰省だったが、道中で密かに目的を2つ決めていた。
僕自身の心の平安を保つためと、
もう一つは祖父母と人生会議をするためだ。


この前年、僕は「人生会議」という言葉を知った。

医療ではACPと呼ばれたりするが、難しく考える必要はない。
人生を振り返り、その延長としてどう年を取りたいか、最期はどう過ごしたいかを一緒に考えること。

全国で出会った地域医療の大先輩達は、いともたやすく、日常会話の中でゆっくりと人生会議を進めていた。

自分もやりたい。
まず家族の幸せを考えよう。
そう決めた時に「オリンピックが終わったら死にたい!」と言っていた祖父母の顔が浮かんだ。
話すなら今しかないかもしれない。

「ねえねえ、おじいちゃんとおばあちゃんはどうやって出会ったの?」

昼ごはんを囲みな、自分やいとこの恋バナから、そんな切り出しをした気がする。

「え? お見合い結婚だよ。あの頃はね・・・」

聞き出す時はちょっと大げさなくらいのリアクションが大事。
「すごいねー」くらいしか言わなかったが、誰しも褒められるとのは気持ちいいようで、自然と話が弾んでいく。

話していると勉強の疲れがどっと出てきた。
「ちょっと寝てくるね」話は盛り上がりかけていたが、遠慮なく昼寝に行かせてもらった。

富士山が綺麗に見えるよく晴れたお正月で、午後の日差しは心地よかった。
2時間ほど寝た後、居間に戻ると祖父母が神妙な顔をして座っていた。

「かけるに話そうか悩んでいたんだけどね。」

さっき僕が楽しそうに昔話を聞いてくれる様子を見て、話す決意を固めたようだ。少し苦しそうな言い出し方を聞いて、僕の背筋も伸びた。


それから、初めて祖父母の人生をちゃんと聞いた。

身内の話なのでそこまで多くは語れないが、結婚してしばらくしてから祖父は婿入りの形をとって、長女である祖母の家の名字に変えたそうだ。
家業がある訳ではないが「家を継ぐ」という考え方がずっと厳しかった時代だからこそ、姉妹だけの家系でも継いでほしいと曽祖父(祖母の父)からお願いされたのだと言う。
エンジニアとして働いていた祖父は、結婚してしばらくしてから名字が変わったことで仕事上の苦労もあったらしい。

祖父の苦労は曽祖父の介護や亡くなったあとの遺産相続まで続いたそうだ。

長女として天真爛漫に育った祖母は、祖父の苦労に気がつくのに時間がかかった。気がついた時には、曽祖父の遺言を巡って家族が分断寸前だった。

祖母は当時のことを後悔していた。
人は死ぬ時、色々なものを遺していく。遺産然り、心の中の思い出然り。本当に後悔なく人生を過ごせたと本人が思えて、残された人も後悔なく見送れる最期をどう迎えればいいだろうか?

祖父母は決断のできる人達だった。

苦労への我慢強さも人一倍だったと思うが、同じ苦労を子供や孫たちにはさせないと心に決めていた。

早期退職してできた時間とお金は、全部自分たちのために使う。忙しかった頃は行けなかった海外にいっぱって、沢山思い出を作る。

尊厳死という言葉を知ってからは、自分達の意思決定を繰り返し家族やかかりつけ医に伝えてきた。

祖父母の人生を聞いてからは、なぜ何度も旅行に行ったり尊厳死を望むのか、圧倒的な説得力が伴ってきた。
尊厳死の希望だけを聞いていた頃は、万が一の時も思いとどまって延命治療をお願いしていたかもしれない。

祖父母の意思を大事にしたいと思えたし、そんな1番近くの人生の大先輩と、残された時間を大事にしようとも思えた。

話し終えた頃、日差しが傾き少し冷たくなってきたことに気がついた。
新幹線の時間が迫っていた。

「話してくれてありがとう。やっぱおじいちゃんおばあちゃん大好きや。
もうちょっと元気でね。死ぬ時はピンピンコロリね」

珍しく3人で写真を取った。驚くほど晴れやかな顔だった。

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人生会議の形に正解なんてない。

ほとんど祖父母の人生の振り返りになり、正直、最期の迎え方などは詳しく話し合えなかった。

それでも、当時をきっかけに僕の中での祖父母の像は確実に変わった。

大事なことは、こういう話づくりを何度も繰り返すことだと思う。
身内だから恥ずかしくなるような、ためらわれるような話も安心してできる場を。難しいけど、チャンスは日常に眠っている。

いつか向き合わなければいけない事は、できれば一緒に悩みたい。
一緒に悩める時間は、そう長くはないかもしれない。

祖父母とはまた人生会議をやろうと思う。
ひ孫ができて、いつまで成長を見たくなった?家族の顔がわからなくなったら?いつまで家で暮らしたい?

濃いめのお茶を入れて、今度は肩の力を抜いて、気楽に話そう。


人生会議コンテンストに向けて書き下ろしてみましたが、間に合いませんでした。。。 それでもこのコンテストをきっかけに大切な思い出を文字に起こせたので、公開します。
最後まで読んでくださりありがとうございました。

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