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ゴールデンウィークなんてのは、もう、やめてしまっていいんじゃないか?

結局、昨日も運動(筋トレ・スクワット50回・腕立て伏せ100回)やった。

「やりたくないことはやらない」ので、
「運動をやらないことはやりたくない」のだ(笑)

今日も運動する。

これ、仕事と同じで、ぼくは「やりたいから」仕事する。

「しなければならないから」ではない。
「やりたい」から。
「やりたくない」ことはやらない。

「書くこと」は「書きたい」から書いてる。
経営の数値は「知りたい」からチェックしてる。

1998年のGW、家族とソウルへ遊びに行った。

円高で、対ドル80円だった記憶がある。
発売されたばかりのスピードの2枚目アルバム『RISE』聴きながら、ソウルへ飛んだ。

それから26年。円の価値は対ドルで半分になった。

当時のソウルは、街中ハングルだらけで、地下鉄にもハングル以外の英語表記はなく、駅名もはっきりせず、大変困った。

現在のエンタメ大国とはまったく違う。
韓国、国を挙げて努力したんだなあと思う。尊敬する。

オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(Ortega y Gasset, La rebelión de las masas)

阪大人間科学部時代フランス語原書を読んで、強烈に覚えているのが「貴族」と「大衆」。

出自、収入(貧富)、職業、学歴などとは無関係で、「貴族」は無理と知りつつ、あえて自分に高い要求を課し、それへ向かって生きる者。少数。

「大衆」は、自分に何ひとつ要求することなく、現にある自己のままで生きる多数者。

清水幾太郎は、これを受けて、次のように書いている。

それが望ましいか否かは別として、現実の社会には、こういう二つのグループがあるようである。自然的欲望からの自由において、自ら高い規範を打ち樹て、それへ向かって自己を構成して行こうと努力する少数者と、自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者。

飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求するところから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向って「貴族」への服従を要求するところから始まるであろう。

清水幾太郎『倫理学ノート』余白

SNSはすべての人を平たくした。

アイドルや歌手、俳優たちにもすべて無料でいつでも会える。動画で、画像で、リールで。亡くなってしまったジョン・レノンにも無料でいつでも会える。

つまり、貴族を無くし、100%大衆化した。

・・・ように見える。見えるが、現実はそうではない。

平たくなんてない。

「鬼と人間」でも書いたが、

バリッバリに仕事してる少数者がいる。連休? ゴールデンウィーク? 知らん。やりたいからダンスしてる。歌ってる。企画書書いてる。取材に出かけてる。原稿書いてる。

連休だー!! どこ行く? 何する? という多数者がいる。
お金いっぱい使って。

円の価値がわずか25年で半分になったというのに。

「なるべく働くのをやめましょう」という「働き方改革」を考えた連中は、「人間」だ。ただ学歴ばかりが高く、人間観察力もなく、仕組み作りだけが好きな。

「鬼」なら、こんなつまらん話、しない。

だって仕事、楽しいもん。遊びと同じやもん。

稼ぐ少数者と払うばかりの多数者。

そういう社会になってしまった。

二人に一人が50代以上の歪な社会。

どうすればいいかというと、働くだよ。
稼ごう。
それしか、ないだよ。

そのために、自分が何やってたら楽しいか、遊べるか。
まず、それを見つけることからかな。

ともあれ、働きましょう。稼ぎましょう。

ゴールデンウィークなんてのは、もう、やめてしまっていいんじゃないか?

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