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瞬間瞬間ぼくたちは別の人になっている

映画館に入った「ぼく」と、映画を鑑賞して出てきた「ぼく」は別人である。
「映画に感動した」体験前後では違う人になってる。

これは「体験」というソフトウェアの話に聞こえるかもしれないが、ハードウェアとしても違う人だ。

仲間と会食。ビール飲む。おでん食べた。

店の前後で別人になってる。

そもそもいまこれを書いているぼくは、書き始める前とは別人。瞬間瞬間、変化している。

昔の哲学者ヘラクレイトスも同じ考えだった。

同じ川に二度足を踏み入れることはできない。常に新しい水が流れ込んでくるからだ。
『断片集』012

部屋の空気も瞬間瞬間変わっている。だから今朝このオフィスに到着した時と、2時間経った現在、違う空気になってる。これ、メタファー(暗喩)ではなく、物理学的、ハードウェア的な意味ね。

アマゾン奥地の少数民族ピダハン。折りに触れこの10年読み返しているが、都度新しい発見ある。内容が多角的、盛り沢山なのだ。

ピダハンに昼夜の区別はない。一日三度食事する、という習慣もない。何時間眠らなければ、というルールもない。だから夜を徹して何も食べず、眠らず、踊ったりする。それで健康である。

ぼくたち生み出した「文明」がいかに根拠のない幻想か、がわかる。

ピダハンは、瞬間瞬間、別人になってると考える。だから川に入る前と、入った後は違う自分になっている。

ダニエル(著者)が、ピダハン語を教えてもらっているコーホイに呼びかけても返事がない。もう一度呼びかけた。返事がない。目の前にいるし、聞こえているに違いないのに。
「どうして口をきいてくれないのか」と聞いた。
すると、「おれに話しかけているのか? おれの名前はティアーアパハイだ。コーホイはここにはいない。おれは以前コーホイと呼ばれていたが、そいつは行ってしまって、いまここにはティーアーアパハイがいる」
つまり、別人になっているのだ。

これは極めてヘラクレイトス的だし、禅的でもある。

禅における「創造」とは、橋を作る、飛行機を飛ばす、荒れ地をブルドーザーでディズニーランド建設する、といった文明的なものを指さない。

カリフォルニア州アナハイムのディズニーランド(開園から8年経った1963年当時)

坐禅する。
座っている間は何ものでもない。自分が何者なのか(Who am I?)もわからず、ただ、座っているだけ。
坐禅が終わる。立ち上がる。このとき、「私」はそこにいる!
「私」がそこにいるとき、同時に世界も立ち現れる。これが創造の第一歩だ。
刻々と、瞬間瞬間に創造しつづける変化の過程。これこそが、「私」であり、「生きる」ということであり、「世界」なんだろうね。

土地の植物を根こそぎブルドーザーやって人工的にジャングルや川を作ることや海を埋め立ててテーマパーク作ることが「世界の創造」ではない。

ピダハンにはいつも教えられる。

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