虎!虎!虎!

  読書は面白い。自分の見たことない景色をこんなにも容易に見せてくれる手段は他にはない。言葉の響きや文体、私の心は常に高揚している。
 それと同時に、「世の中にはこんなにも面白いものを書く人がいるのに、どうして私はできないのだろう」と落ち込むこともよくある。理想としている人やなりたい自分と今現在の自分はかけ離れすぎている。いつ生まれてきたのか分からない「自意識」というものが常に私を苦しめてくるのだった。
いっそ、人間なんかやめて、空を自由に飛ぶ鳥や近所を自由に歩き回る猫になってしまいたいものだ。

 私は人間関係から劣等感を覚えたり、何事もうまくいかないことがあったりすると、他者との関係を一切遮断して、自分だけの世界で生きていこうとする癖がある。自分を守ることに必死になってしまっているのだ。
しかし、これが逆効果で他者との距離をおけばおくほど、他人を羨む気持ちが沸々と湧き上がってくる。それと同時に自意識や自尊心が無駄に膨れ上がっていく。そうなると、苦しみは増していき、相手を認める許容は減り、孤立は深まる一方であった。
 なんて自分は醜い生き物なんだろう」と思っては、 また今日も、また今日も。辛い日々重なっていくのである。


 そんな日々を過ごしていたある日、ペンを握る右手に違和感を感じた。爪が当たってペンが握りづらい、服の袖の中がやけにゴワゴワする。恐る恐る見てみると、爪が鋭く伸びて、手には黄色と黒色の毛がふさふさ生えていた。これは虎ではないか!私は咄嗟に右手を袖の中に隠して、布団にくるまって、いつもより早く就寝した。 次の日になると、昨日の出来事は夢だったのか、すっかりいつもの私の体に戻っていた。私はとても安心して涙が出てきた。
 

  その時にはもう私は鳥にも猫にもなりたいと思わなくなっていた。

 『山月記』は、詩人を目指し官吏を退いた李徴という男が一向に名声が上がらないことに苦悩し、詩業のために人との交わりを避けた。しかし、その自尊心の高さからに虎に成り果ててしまうという物語である。李徴は虎になって人間であったことを懐かしみ、自分の怠惰に気がついていった。


 私は、「自意識」というものは自分をどうにか客観視してさらに良い人間になろうとするために働き、「自尊心」というものは他者から自分を守る自己防衛の役割をしているのだと分かった。


 李徴が虎になった後、人間だった頃を懐かしく思ったのは、感情には人間のみしか持たないのものがあり、その感情の大切さに気がついたからではないだろうか。虎になってからでは遅かったのだ。
 自分を守ろうとするために肉体的のみでなく、精神的に苦しむ動物は人間だけなのかもしれない。当たり前だが、人間は人間の心を持って、その心で生きていくのが一番幸せなのだ。私は素直にこの「自意識」と「自尊心」によって引き起こされる精神的な苦しみと向き合って生きていこうと思う。


   今、この文章を書くのも、自分の感情と正面から向き合う辛いものである。まだまだ私の理想とする姿に遠い。なかなか書けなくてただただ時間だけが流れていく。
 「人間は何事も為さぬには余りに長いが、何事かを成すにはあまりに短い」これは、この『山月記』で李徴が述べた言葉である。作者の中島敦は李徴に自分を重ねていたのだろうか、この『山月記』を発表した同年、三十三歳という若さで亡くなった。

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