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「大学生」が基礎造形と出会ったら

桑沢デザイン研究所の基礎造形専攻には、様々な背景をもった方が学びに来ています。基礎造形と出会ったきっかけや、造形課題を通して感じたことなどを、綴ってもらいました。

「大学生である私」について

国際経済学を学んでいる、大学2年生です。
土日は美術館でアルバイトをし、現代アートの解説をしています。

「昔、誰かがやったもの」じゃ、満足できない

小さいころから、「何かを生み出すこと」が好きでした。

小学生の時は、クラス新聞や雑誌を自主的に作成し、
中学生の時は、体育祭の応援団で演出を考え、
高校生の時は、視聴覚室を乗っ取ってDJイベントをし、
大学生の今では、ミュージカルサークルで衣装を作っています。

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演出の方と話し合いながらデザインを考え、
縫製しました

自分のやりたいことを見つけ、周りの人と共につくっていく。
それはとても楽しい時間です。
けれど一方で、イベントが終わったり制作物ができた後に、こんなことも思うようになりました。

「もっと何かと組み合わせたら自分たちのオリジナリティが出たんじゃないか」

何か、大きなきっかけがあって、このように思ったわけではありません。

ですが、やればやるほど「結局、他の誰かがやったことを踏襲しているだけでは…」と、自分が生み出すものへの限界を感じ、悔しく思っていました。

「昔、誰かがやったもの」の焼き直しではなく、「自分たちだからこそ、生み出せたもの」「今より、もうひとひねりして、すごくいいもの」をつくりたい。

けれど、私の専攻は国際経済学。
美大のような、「ものをつくる環境」ではありません。

大学2年生は授業が忙しいけれど、「つくる力」は鍛えたい。

そんなとき、「つくる訓練ができる学校」として、桑沢デザイン研究所の基礎造形専攻を見つけ、入学することにしました。

基礎造形でつかんだ、「なぜ?」に気づく視点

基礎造形に通うことで強く思ったことは「すべては、観察から始まる」ということです。

まずはいろんな視点から、よく見る観察)。
そして、手で触ったり、香りをかいだりしながら、別の五感で捉えていく。
さらに、偶発的に生み出すやり方(発想)と、
素材を組み立てて形にするやり方(構成)を、
行き来する。

基礎造形専攻ではこの「観察」、「発想」、「構成」の力を鍛える訓練を何度もしました。
それにより、自分の視点が変わり、今まで気づかなかったことに気づけるようになったと感じています。

たとえば、椅子の背もたれ。

椅子の背もたれにかけていたコートが落ちてしまったとき。
背もたれが、どのようなデザインだったらコートは落ちないのだろうか。
そもそも、椅子の背もたれ以外にコートをかけやすい日常的な家具はないか。

たとえば、傘立て。

ビニール傘を傘立てにいれると、誰が誰のものかわからなくなってしまう。「これが自分の傘だ」と一目でわかる美しい傘立てのデザインとは、どのようなものだろうか。

たとえば、コーヒーカップ。

なぜこのカップは、この形なのだろうか。
なぜこのカップは、この材質なのだろうか。
このカップは、誰向けに作られたのだろうか。

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目の前のものに、
多くの「なぜ?」が生まれてくる

この、何かを見たときに「なぜ?」と考える力をはぐくんだ造形課題の一つに、「ハンドスカルプチャー(通称:ハンスカ)」があります。

「目で見ておもしろい・ここちよいもの」をつくるのではなく、「手で触ってここちのよいもの」を、角材を削りながらつくる課題です。

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ハンスカ1回目 まだ角材の姿が残っています

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ハンスカ講評会
自分が作ったものとは違う感触と出会えます

触覚を判断基準としながら、手の感覚、感性を鍛えていくこの課題では、最初は捉えどころがなく難しく感じました。

ですが、少しずつ角材を削り、目をつぶって触り、手の感覚だけを大切にしながら、何度も繰り返していくうちに「私の手は、なめらかな曲線を描く形が心地よいと思うようだ」と、自分自身を理解する瞬間がありました。

つくるという行為を通して自分自身の好みを理解できるようになると、今度は「この製品は、どうしてこの形をしているのか」と強く意識するようになりました。

「なぜこうなっているんだろう?」と自分が疑問に思うところから、新しいものは生まれ出るのではないか。

基礎造形の1年間を経て、今はそんな風に思っています。


「大学との両立」「社会人との会話」への不安

この記事を、もし「基礎造形専攻に興味を持った大学生」が読んでいるとしたら、以下のような不安があるのではないかなと思います。

①大学と両立できるだろうか?
②クラスメートとなる社会人と、会話できるのだろうか?

私以外にも大学生の方はいましたし、どう捉えているかは人によって異なると思いますが、私なりの解釈を書いてみます。

まず、①「大学との両立」について。

私の場合、平日昼間は大学、夜間は桑沢基礎造形、土日は美術館でのアルバイト…と、休む時間が無い状態が続きました。

欠席が少し続くと行きづらくなりますが、基礎造形専攻のみなさんはグループで固まることなく、行くと誰かが必ず声をかけてくれ、すっと入っていくことができました。

また、欠席している間の情報を誰かが教えてくれることも多々ありました。

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入学と同時に作成されたSlackでは、
授業詳細や修了展の進め方について
情報が流れてきました

このように、いろんな形でクラスメートに助けてもらい、何とか大学と両立することができました。

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次に、②の「社会人と会話できるのか」ということについて。

正直、私は家族や親戚以外の社会人と、話したことはほとんどありません。

社会人と何を話したらいいかわからないし、その話についていけるのかもわからない。

けれど、基礎造形専攻では「造形課題」という「共通言語」があります。

何かのテーマをもとに「正しい、正しくない」と話し合うような討論ではなく、それぞれがつくった造形課題を通して「互いの解釈」を創造しあう。

造形を媒介物として、自分の表現を見せることができ、相手の表現を知ることもできるので、社会人の方とも難なく会話することができました。

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「曲げによる造形」の講評会の一コマ
気になる造形について話したり、
どのようにしてつくったかを言語化します

出される造形課題には、一人でもくもくとやるものもあれば、誰かと一緒になってやるものもありました。
中でも、「Drawing in Dark」は、後者の「誰かと一緒になってやる」こともできる課題です。

ここで私は、今まで話したことがなかった社会人の方と一緒に、課題に取り組みました。

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その社会人の方と数分間アイデアを出し、
即興的につくったうごき

最初は戸惑いもありましたが、すぐに慣れて「もっといろんな人と話してみたい」「もっと一緒に何かをやってみたい」と思うようになりました。

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学校がない日の夜はクラスメートで集まり、
おでんをつくって食べたことも

基礎造形専攻は1年間のカリキュラムのため毎年クラスの雰囲気は異なると思いますが、少なくとも私は安心してこの基礎造形専攻に参加することできました。

私はこのような、「いつでも入っていくことができ、取りこぼしたところは誰かが教えてくれる、温かなコミュニティ」に属したことがなかったので、素直に「すごいコミュニティって、存在するものなんだな」と感じました。

現代アートを重視する私が、経済を学ぶ理由

よく「なぜ美大に行かなかったのか?」と聞かれますが、私は何かを生み出すことや、現代アートと同じぐらい、(国際)経済学にも惹かれています。

何をやるにしても「経済」というものは、つきまといます。
また、経済学は何かの事象や社会課題などを、先行研究を踏まえてリサーチし、自分たちの独自の視点を踏まえてさらなる調査・研究を行うことのできる学問です。
私はこれを「独自の視点を入れ込んで解釈できる自由さがある」と捉えており、おもしろみを感じています。

また、「経済学」という視点から「現代アート」を捉えなおすことにより、「アートや美術だけの視点」から見るよりも、多くの人に現代アートを届けることができるのではないか
そんな風にも、思っています。

感性や感覚は、誰しもが鍛えられる

いつか、「あの曲聞いた?」と聞く気軽さと同じぐらい、「あの現代アート、行った?」と聞ける社会を創りたいです。

美術館で現代アートの解説をしているとき、「自分は感性や感覚が優れていないから、現代アートのことはわかりません」とおっしゃる方がいます。

けれど、実際に解説をしていくと「聞いたことで解像度があがった」「おもしろかった」と言ってもらえることが多いです。

現代アートは、特別な誰かのものじゃない。
敷居の高いものでも、感性や感覚を生まれつき持った人だけのものでもない。

こちらの記事にもあるように、デッサンも最初から誰もができるわけではありません。けれど訓練したら、少しずつできるようになっていきます。

また、基礎造形の課題の一つに「キーワードリサーチ」というものがあります。これは、光・音・流・波・風から1つ選び、それがイメージされるものを撮影・収集する課題です。

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私は「光」を選択しました

「光」というキーワードをもって日々を過ごすと、何気なく過ごしていた日常の中にも違うものが見えてきます。また、「自分はどのように光を捉えているのか」ということにも気づくことができました。

このように誰しもが、知ったり、探したり、手を動かしたりすることで、感性や感覚は鍛えられます。
必要なのは、生まれつき持った才能ではなく、訓練の機会に出会うことなのです。

現代アートは、みんなもの。

それを一人ひとりが感じられる社会を創るために、私はこれからも現代アートと経済学が交差する点を探っていきます。

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