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松岡政則詩集『ぢべたくちべた』

 同郷の松岡さんとは、第一詩集『川に棄てられていた自転車』の頃、交流があった。差別をテーマとして、「石を投げる」行為により怒りをぶつける力強い作風だった。その後、私が詩から離れたため、松岡詩からも遠ざかったが、このほど第九詩集『ぢべたくちべた』を拝読し、完成度の高さに驚いている。

 牛肉や香菜をたっぷりのせたブンチャーがまたぶちくそうまい
 さっと喰うのが麺の粋というもの
 かまうことはない音をたてて啜り喰うたった
 背なを澄ませて人人の聲を聞いているハノイ旧市街
 ちいさなおんなの子が泣いているね
 聲に聲が被さって
 聲のなかに別の聲が走って
 雨みたい(中略)
 わたしは人のことばがわからない
 聲にしか関心がない
 ひる寝の足だけがみえているあるいている
 フーコック産の胡椒でもさがしてみるかあるいている
      (『通りすがり』」より、部分)
 
 松岡詩の持ち味でもある広島弁を使った強烈な筆致が「おんなの子が泣いているね」から一変する。終助詞「ね」によって、作者は読者に相槌を求める。読者も詩の中のおんなの子に「迷子になったの?」と声をかけそうになる。おんなの子の泣き声を掻き消す町の喧騒は確かに驟雨のようだ。「あるいている」も頻出する。ほとんどが「みえる」とか「さがす」とか、別の動詞に連なる形で置かれる。『身体言語』という詩には十二回も出てくる。その中に「言葉は出会いであるとやっとわかった気がするあるいている。」とある。歩いているのは言葉との出会いのためなのだ。「自分をなじり倒してやりたくなるあるいている。」「文法規則など知ったことではないあるいている。」「お前はずっと恥ずかしいままでいなさいあるいている。」「帰りたいけど帰りたくないあるいている。」ともある。自分の言葉を探し、探しあぐねて七転八倒する作者の言葉への愛の深さには感服する。

 
 どうせなにも解決しない
 わたしの詩もなおらない
 ぢべた、くちべた
 ふったりやんだり隣るひと
 いきているうちに善行のひとつもなしてみたい、ともおもわない
   (『くぬぎあべまきうばめがし』より)

 松岡さんは善人でなくともかまわない。真の詩人でいてほしい。

『ぢべたくちべた』思潮社 2023年7月31日 2300円+税

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