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秋山基夫詩集『花下一睡』

  うららかな春の日、私は、まぁるくすきとおった砂時計の底に体操座りさせられているような錯覚に陥る。たえまなくふりしきる花びらは、時のかけらになって私を埋める。桜の樹の下には屍体が埋まっていると書いた人がいたけれど、その屍体は、私の顔をしている……と、詩集『花下一睡』を読み終えた後、思った。
 
花から花へ
年はとっても花見でござる
花から花へ
花の餓鬼になりはて
                 (『吉野』部分)
 
山の斜面は
白い雲のように
満開の花です
その満開の枝の下の
うす暗がりを
すべり落ちていき
ころげ落ちていき
                 (『吉野』部分)
 
  桜の花は色も香りも淡いけれども、満開になって群れ咲くとき、見る者の正気を奪う。奈落の底へと、もっともっと転がり落ちてゆきたい衝動に駆られる。
 
  本詩集は十二の詩篇を収めるが、中で私が最も惹かれたのは『花』だ。小野小町の和歌、五首を作品中に織り込みながら、春の艶を詠う。
 
花が散る
明るい空をいつも花が散っている
うす暗い几帳のかげに臥し甲斐ない思いに疲れはて
ぼんやり外を眺めていると見えない雨が降っている
ふと空が明るんで花など見ていると雨が降っている
夜も昼も音もなく降ってはやむ雨に閉じ込められて
この春もだらだらだらだら過ぎていき過ぎてしまう
雨の晴れ間に目をほそめ薄日のさす空をながめやる
花がだらしなく色あせている花が腐っている
花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに
 
               (『花』第一連)
 
   一行目「花が散る」は、小町自身「花の色はうつりにけりな…」と詠っているように、桜の花であると同時に、彼女の容色の衰えを意味する。春の雨は、花の目覚めを促すが、花の盛りは一瞬で、それからは一雨ごとに花を散らし、そして腐らせる。「だらだらだらだら過ぎ…」は「だらしなく色あせ…」を導き、読者である私は、花びらのような蛆虫にまみれながら、「みだらに腐ってゆく女」をも想像した。
 
  最終連を引いてみる。
 
老いて
蓬の髪に
破れ笠
草履も履かず
鬼の姿になって
物乞いをして歩き
乾いたのどを潤そうと
たどり着いた
備中の国 某寺の
井戸の底をのぞきこむと
井戸の水で洗った
わたしのうつくしい顔がうつっている
夢ではないうつつです
春の風がふわりと吹いてきて
水にうつるわたしのうつくしい顔に
はらはらはらはら
たくさんの花びらが散り落ちている
                 (『花』最終連)
 
  備中の国某寺は、倉敷市の法輪寺だ。小野小町は晩年、悪瘡を病み、本尊正観音に願を立て、毎日、この寺の井戸を鏡として顔を見たと伝えられる。私も最近、井戸について詩を書いた。井戸の水鏡は、自らの妄念を映し出すと、私は思う。小町にとって「美しい」ということは、生きている限り背負い続けなければならない原罪である。病み衰えた小町の目であるからこそ、水鏡に、「夢ではないうつつ」の顔を見た。「うつつ」とは「現実」ではなく、「うつくしい顔」という「真実」である。
 
  詩集『花下一睡』に収められた十二の詩篇は、夢の香を薫き染めた春の十二単だった。夢から覚めるとき、それが美しければ美しいほど、幸せであればあるほど、切ない。
 
  詩集『花下一睡』七月堂 2024年4月1日発行

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