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滝本政博詩集『エンプティチェア』

 精神療法の一つに「エンプティチェア」というものがある。向かい合わせに二つの椅子を用意して、一方の椅子に腰かけ、もう一方の空っぽの椅子に誰かが座っているとイメージして、言いたいことを言う。次にもう一方の椅子に座り直し、「誰か」の立場になって、言葉を返す。それを繰り返すことで、客観的な視野を持ち、心の問題が解決されるらしい。滝本さんの第一詩集のタイトルにもなっている巻頭詩が好きだ。

  

 エンプティチェア

 テーブルにはニ脚の椅子があり
 その一つに座っている
 対面する椅子には誰もいない
 何処にいるのだろう
 椅子に座る人は
 誰かのベッドに入り込んでいたり
 ひとりで町を歩いているのか

 椅子に座ってわたしは待つ
 何処にいるのだろう
 わたしの周りから消えていった人たち
 みんな最後には何処かに行ってしまう 

 あの人 と よべる人が人が一人いて
 今でもわたしを悩ませる
 はるか遠い昔に
 別れた人だ
 何処にいるのだろう

 あの人を椅子に座らせて 対面する
 言わなければいけない言葉があった
 はずだ 遠い昔 あの時
 いまでもなかなか言葉になってくれないが
 どうか幸せであるようにと願うばかりだ

 眠りから覚めても自分が自分であることの不思議
 何処にいるのだろう
 わたしはずっと愚かなままだ
 いつの間にか時は過ぎ
 またこの椅子に座っている
                      (全文)

 作者は、空っぽの椅子に座った「あの人」をイメージしながらも、交わす言葉を見つけることができない。それ故、その椅子に座り直して、あの人からの言葉を受け取ることもできない。本当に大切な人であったなら、こうなってしまうのではないか。そもそも私は、言葉を信じていない。「愛しています」と誰かに告げたとしても、「あ い」というものを私は見たこともない。触れたこともない。匂いを嗅いだことすらない。おまけに「愛」を告げた時点で、「誰かに対して、何かを期待する私」になっているから、それは「自己愛」でしかないだろう。ここで、滝本さんは「どうか幸せであるようにと願うばかりだ」と書く。相手に何も要求しないから、対面する椅子は空っぽのままだ。自己愛は、かけらもない。「わたしは待つ」とあるが、「待つ」ことすら諦めているかに見える。自分自身を空っぽにして片方の椅子に座り続けるということが、「愛する」ことなのかもしれない。
 「言葉を信じていない」と私は書いたが、だからこそ私は、詩を書く。空っぽの椅子に言葉を並べ、ああだこうだと話しかける。期待する返事を得られた試しがない。対面する椅子の乖離から、詩は生まれる。
 滝本さんの詩を読んでいて、石原吉郎の詩を思い出したので、挙げておきます。


 椅子            石原吉郎

 無人であることを絶対の
 前提とすることで
 部屋ははじめてひとつの意志に
 めざめることができる
 椅子を引き倒し
 扉を押し開けたものの
 最後の気配に
 耳をすませたのち きみは
 椅子がみずからの意志で
 ゆっくりと起き直り
 無人の食卓へ向うさまを
 ひっそりとおもひ
 えがけばいいのだ            (詩集「北條」より)


滝本政博詩集『エンプティチェア』 土曜美術社2023年11月10日発行




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