遺失物 詩集『しなやかな暗殺者』より
遺失物
少女は噴水で水浴びをしていた。真冬の真夜中の出来事である。噴水はライトアップされている。彼女はもちろん、生まれたままの姿だ。もっとも臍から下については、水に浸かって見えない。白い背中には、墨汁を流したようにべっとりと、黒髪がはりついている。
つらつらつばき つらつらと
おもひかさねて つらきかな
歌いながら、赤い椿の花でお手玉をしていた。隙間風みたいな声だ。ふっくらとした胸もとをあらわにしながら、恥じらうふうも媚びるふうもない。椿は少女の手のひらを、はなれてはもどりはなれてはもどりする。噴水も飛沫を散らし続ける。
つらつらつばき つらつらと
おもひおもひて いまあはむ
僕はじれったくなって、思わず返しの歌をうたった。少女は不意に僕を見た。いやいやするように首を横に振った。それから突然、ざんぶりと音を立てて水に潜ったのだ。一瞬、大きな魚の、いや人魚の尾鰭が水面からのぞいた。
僕は噴水に駆け寄った。既にライトは消えている。水面に、たぶん赤い色だと思われる花のむくろが、いくつか浮かんでいるだけだった。
(全文)
赤い椿とお手玉遊びは、近々上梓する第四詩集にも違った形で登場する。私の原風景にあるモチーフ。そういえば母が、赤い椿が好きで、庭に植えてあった。
橘しのぶ第二詩集『しなやかな暗殺者』
梓書院1999年3月20日発行
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