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「暑中お見舞い」。

先月、ALSで8年間の入院生活の末亡くなった知人の話を書きましたが、今、パソコンのデスクトップを見ていると、彼に宛てた手紙(暑中お見舞い)のデータがありました。データの日付は一昨年の8月2日(のなぜか午前3時52分。)。手で書くことをサボってパソコンで打った訳ではなく、彼が読みやすい字をと思ってパソコンを使って大きな文字で書いた模様。実家の父親を見舞う前に彼のいる病院に寄り、たぶん受付で渡したのだろうと思います(コロナで面会が出来なかったから。)。

私は、そこに、自分が「家族」と離れて住まなければなくなった経緯を書いていました。

普通に生きようと思えば普通に生きられる世の中であるようにも思うのですが、なかなかその「普通」が難しいようです。
数年前、
「普通だったらさぁ…。」
「普通はさぁ…。」
と繰り返し職場の愚痴などこぼす私に、まだ小学校の中学年くらいだった息子が、
「父さん、その人たちは普通じゃないんじゃないの?」
と言ったことがあります。ああ、本当に。彼らも、そして私も、「普通」なんかじゃないんですよね。

息子のその言葉からはとても多くのことを学んだはずなのに、それを彼や「家族」に何ら返すことが出来ていないのが情けない限りです。でも、彼らが私との暮らしを望まないのであれば、私は、違った場所で静かに生きることしかないのかなと思っています。

いい父親にはなることができませんでした。
ならば、(言いたくはありませんが)父親になるべきではなかった、結婚するべきではなかった、そもそも生まれてくるべきではなかったのではないかと、否定的なことばかり考えてしまいます。
でも、▲▲さんや、あるいはうちの父、そしてそれを笑顔で支える母など、一生懸命生きようとしている人たちがいることを思うと、なかなか安易に「死」を選ぶこともできません。グズグズ言いながらも、見苦しい様子をお見せしながらも、私も頑張れるところまで頑張りたいと思います。

先日来、メールで返事をいただいても、正直、なかなか「判読」できずにいます…。これは、視線入力ですか? それとも、腕での入力? いずれにせよ、なかなか文字入力がしづらい状況なんですよね、きっと…。痛々しくって、少しつらい気持ちになりながら繰り返し読んでいます。

「こ」
「ととも」

とあったのは、「こども」のことを仰りたかったのかと思い、しかもそれが▲▲さんのところのお子さんの話なのか、あるいは、うちの息子のことを気遣ってくださってのことなのか分からず(もちろん、さらには、それらとは全然関係が無い可能性もあって)、いろんなことを想像しながら何度も繰り返し読んでおりました。

私は息子(現在中1)とは1年以上(ほぼ)会っていません。
「ほぼ」と書いたのは、小6の運動会と音楽会を見に行ったのと、運動会のときにフルーツを届けたのに彼がお礼の電話を掛けてきてくれただけで、それ以外(それ以降)は「音信不通」だということです。そのことが私にとっては何よりつらいことです。
▲▲さんは、○○くんや、お嬢さん、下の息子さんと連絡を取っておられるのでしょうか? あるいは奥さまと。その辺りの事情も、本当は話をしたいところなのですが。

たぶん直接会うことのできなかったこの「お見舞い」が、彼に連絡を取った最後になったのではないかと思います。