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雨とカレー【AJANTA(アジャンタ)】

雨が降る日は決まってこうだ。
その日は前日の夜から雨が降っていた。小粒で細かくて弱々しい雨。晴天を好む人からも雨天を好む人からも喜ばれない中途半端な雨だった。
それでも雨は雨だ。私はいつもの衝動に駆られていた。

カレーが食べたい。

いつからなのだろうか。それははっきりとは思い出せない。ただ一人暮らしを始め、好きな時間に好きなものを自由に食べられるようになったある日からこの衝動は音を立てずに現れた。まるで僅かに開いた戸の隙間からするりと登場する猫のように全くの気配も感じさせずに。

雨とカレーの相関性については正直言って私も分かっていない。私以外で同じ衝動に駆られるという人を見たことも聞いたこともないし、そもそも存在するのかどうかも甚だ疑問である。
ただひとつ推測できることはこの衝動は一種の反骨精神により引き起こされているということだ。

雨粒或いは雨を降らせる雨雲にカレーを喰らう自分を見せつけたいのだ。彼らは空を暗くし地上を濡らすことによって気分が落ち込む人々を空高くで嘲笑っているに違いない。そんな意地の悪い奴らに私は弾けるように辛いカレーを口いっぱいに詰め込む姿を見せつける。「どんより」の対極にある感情を剥き出しにする。つまり雨に全く屈していないということを自らの姿勢で示したくなるのだ。いわばカレーを食べるという行為は雨に対するひとつのカウンターカルチャーであり、70年代のイギリスに突如君臨したパンクのようなアナーキズムを含んでいるのである。

目が覚めると雨は昨晩よりも更にか弱い線に変わっていた。黒い雲の隙間から白い光が差し込み小鳥の囀りがところどころから聞こえた。
しかし私のカレーを求める衝動は雨の強さに反比例するようにより一層強靭なものになっていた。私はホンダ・ディオに跨り、開店間際のカレー屋の方向へ走らせた。

白川通を北に進み東鞍馬口通に入ってすぐのところに今日の決戦の舞台は姿を現した。

"AJANTA(アジャンタ)"

豊富な種類のカレーを揃え地元民や学生から愛される本格インドレストランだ。

時刻はまだ正午を回っていなかったが店内は既に二組のお客さんで賑わっていた。
どうやら二組とも日本人ではないようだ。おそらく京都大学に通う留学生だろう。各々の母国語で楽しそうに談笑している。

壁や棚にはいかにもインドを感じさせる装飾の数々ががあちらこちらに施されており、インドの民謡らしい音楽がBGMに採用されている。

ただ所々に喫茶店のような古き良きレトロな雰囲気も覗かせている。入り口の大きなガラス窓やタイル張りの壁がそれを感じさせるのだろうか。他のインドカレーレストランにはないような思わず長居してしまいそうになる心地良い雰囲気が店一杯に漂っていた。

差し込む光が心地よい
インドらしさと昭和レトロが見事に調和している

しばらく店の暖かい空気に浸ってからメニュー表に目を通す。

ううむ、悩む。いや、実際には悩むという次元にすら辿り着けていない。なんせ見たことのないカタカナが多すぎる。特にインドカレー通といった訳でもないので知らなくて当然なのかも知れないが、無知は決して誇るべきことではない。インドカレーを食べに来た以上、インドカレーの最低限の知識は備えておくべきだった。

後悔の念に苛まれながらも再びメニュー表に目を向ける。それにしても種類が豊富だ。こんなにも多種多様なカレーを頂けるレストランはなかなかお目にかかることができないだろう。日本の味付けに不慣れな留学生が挙って訪れる理由はここにあるのかも知れない。

様々なカレーが並ぶランチメニュー
写真付きなのもありがたい

悩んだ挙句、未知なるカレーに挑むことを諦めキーマカレーのランチセットを注文した。インドカレー屋に来たのならナンをお供に頂きたかったが生憎その日はナンのおかわりができないとのことだったので断念。そういう日もある。

厨房から漂うスパイスの香りが空っぽの胃の中で行き先を失い流離う。あと数秒でカレーを求める衝動が限界を突破する、というタイミングでセットを乗せたトレーが運ばれてきた。それと同時に戦いの狼煙が上がった。実に半日以上待ち侘びたカレーとの対面。インドカレー屋の中で私ひとり兜と甲冑を纏った武士であった。

サラダやスープは二の次、私は一心不乱にカレーに食らいついた。丁度良い辛さだ。辛過ぎず甘過ぎない、所謂"中辛"。最も口一杯に掻き込みやすい心の底から求めた辛さ加減をしている。

隣に鎮座する黄色いライスも気分が上がる。もちろんライスは白色でも何の問題もない。ただインドカレー屋に来て食べるライスはターメリックであればあるほど良い。これが浪漫というやつだ。

汗が滝のように流れ始めた。二組の留学生は時折ライスのおかわりを注文したりしながら依然談笑を続けている。同じ店内で同じ料理を食べているのにこんなにも楽しみ方が違うとは。自分のことながら少し笑ってしまいそうになる。

口に残る辛みを熱々のスープで流しながらあっという間にカレーを完食してしまった。スープは贅沢にも各セットにひとつずつポットで提供される。濃厚で口当たりの良いオニオンスープだ。カップに3,4杯ほど飲んだがそれでもまだポットには幾分か残っている。想像以上に大容量。店主の懐の広さが垣間見え、気づけば心までポカポカと温まっていた。

食後に頂いた冷たいチャイも格別だった。骨の髄まで熱を帯び汗をかいていた身体は急激にクールダウンされ、鋭いスパイスを纏った口の中は一瞬で甘ったるい波に呑まれた。これが属に言う"整う"というやつなのかも知れない。インド式サウナとでも名付けて世間に売り出そうか、なんてつまらないことを考えながら支払いを済ませ、店を出た。

店を出るとすっかり空は青く冴え渡っていた。
そういえば私は雨にカレーを見せつけたくてアジャンタを訪れたのだった。雨雲はきっと余りにも幸せそうにカレーを食す私を見て一目散に逃げ出したのだ。そうに違いない。でも、もう今更そんなことはどうだって良かった。

いつもより幾らか張った腹を摩りながら店の周辺を少し散歩してみた。車道の傍の小さな水溜りが居心地の悪そうな様子でこちらを見ている。ある意味、私とアジャンタのカレーを巡り合わせてくれたのはこの雨のおかげなのかも知らないなとふと思った。

結局、雨とカレーの相関性は未だ分からないままだ。 

【AJANTA(アジャンタ)】
住所:京都府京都市左京区北白川瀬ノ内町27−5
営業時間:11:00~14:30 / 17:00~22:00
定休日:不定休
※営業時間や定休日は変更になっている可能性がございます。


ノウグチカンタ / 北白川文化研究員No.1
勢いだけでインドを放浪したい大学生
北白川歴:1年

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