見出し画像

軍刀

父が自衛隊在籍時の痕跡をなぜ消そうとしたのか。今となっては確かめる術もない(ボケるってホント、残酷)のだが、年代的に先の大戦で敗戦側となり辛酸をなめたこと、母は父(私にとっての祖父)の復員が遅れに遅れた結果、苦しい幼少期を過ごしたことも影響したのではないかと思っている。その父も、八人兄弟の六番目に生まれたがひとつ上の兄は戦死しており、その知らせを聞いたのは陸軍士官学校入校時だったと最近明かしてくれた。戸籍によれば1944(昭和19)年7月のことだったらしい。

10年ほど前のこと。ある時父が「これは亡くなった兄の形見だ」と言って某デパートで開催されていた刀剣即売会に出た刀を買うと言いだして大騒ぎになったことがあった。なんでも「サイパン島で米軍が捕獲した軍刀」が、幼年学校在籍時に兄に見せてもらった刀そのものだと言うのだ。事の真偽は確かめようもないが、このご時世それなりの刀剣類を所持することは、ある意味鉄砲を持つことよりも面倒くさい事態だ。母が反対するのも無理はない。ただ一度言い出したら引くことを知らない父の性格も知っているだけに、所定の届け出を行ってきちんと保管することで折り合いを付けるしかないと考え、母をどう懐柔するかに作戦を切り替えた。母があきらめる決め手となったのは「今どき軍刀を持ってコンビニに押し入るバカはいない」という私のひと言であった。しかし、帝国陸軍の軍人にとっての「軍刀の重み」については知る由もない。入手当初はうやうやしく手入れをしていた父も、母の介護が忙しくなってからはどうもお手入れをしなくなったようで、つい最近こっそり確認したところ...後は何も言うまい。

認知症を発症した母の介護は約4年に及び、昨秋母が旅だった後は、それまでしっかりしていたはずの父にも緩やかに認知の症状が忍び寄ってきた。母の遺品整理が終わり、ふと父の書棚を見ると三島由紀夫の著作が並んでいることに気が付いた。「そういえば、書店から配本されるのをあの頃楽しみに待っていたな」ということを朧気ながらに思い出したが、東部方面総監部(当時は市ヶ谷駐屯地内にあった)総監室での自決という出来事はあまりにも衝撃的で、当時三島の子息が在籍していた学校に通っていた私は、訳もわからず足止めされたことを記憶している。

そして、Wikipediaで三島事件のあらましについて読み進めると「母が父の刀剣購入に反対したのは、実はこれじゃないか?」と思い当たる記述にぶち当たった。晩年の三島が極端な国粋主義に走り「楯の会」を結成したこと、総監室での自決に軍刀拵えの関孫六を用いたこと、棺にもその刀が納められたという記述があったのだ。

令和の平和な時代からすると、刀剣を用いての戦というのは正直想像も付かないが、刀剣や銃砲に対して戦争を経験した人々が強烈な拒絶反応を示すのはわからないでもない。そんな母に遠慮したのか、私も海外渡航時にシューティングレンジにかなり通ったことや、ひとりぐらしを始めてからモデルガン蒐集に熱を上げたことについてはなくなるまで一切言わなかった。ホンモノの銃砲に比べたら「同じ形のオモチャ」に過ぎないエアガンに全く触ろうとしなかったのも、そんな母に対する遠慮だったのだと今にして気付いた。いやしかし、困ったのは今も実家の床の間に鎮座する刀だ。生きている間はせめて手入れだけでもしてほしいというのは酷な話だろうか?
(トップの写真は実家の床の間に鎮座する軍刀と木刀)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?