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復活節第6主日(B年)の説教

ヨハネ15章9~17節

◆説教の本文

〇「私の愛にとどまりなさい。」

今日の福音朗読は、先週の主日の福音のすぐ後に続きます。先週は「 私はブドウの木、あなた方はその枝である。私に繋がっていれば、あなた方は実を結ぶ」とイエスは言われましたが、今日の朗読はその変奏です。

「私の愛にとどまりなさい」と言われていますが、情緒的なことを言っているのではないと思います。第二朗読のヨハネの手紙に言われている通り、「神は愛です」から、イエスの愛に留まるとは、イエスその方(person)から離れずに留まりなさいということです。

〇 何事につけ、「留まる」ということは大事なことです。人間のトラブルの かなりの部分は、「留まれない」ことから起こります。
私は上智大学の神学部で百瀬文晃神父からキリスト論を習ったのですが、百瀬先生は懇切に、学生にいろいろと勉強のコツを教えてくれました。

その1つに、「学問をする上で大事なのは、脳味噌のしわの数深ではなく、尻の皮の厚さだ」というのがありました。
文系で論文を書いたことのある人ならわかると思いますが、論文を書き上げる上での誘惑は「新しい資料を漁る」ことです。特に行き詰まると、どこかにもっと良い資料があるんじゃないか、この研究書を読めば知りたいことが書いてあるんじゃないかと、新しい資料を探し回りたくなります。

もちろん、資料探索は必要なことです。最初にだいたいどういう研究書や論文が読むべき資料とされているか、どこの図書館にあるかを捜索します。 しかし、探索の時期がいちおう終わったら、机にどっかりと座って、じわじわと読むべき本を読み、そして自分の頭で考えなくてはなりません。そして、パソコンのキーボードを操作して、モニター上に一字一字書き下ろしていく。
その時期に入っても、もちろん新しい資料を読むことはありますが、あくまでも限定的です。ダラダラと探していてはいけません。「机にどっかりと座る」ことを 、「尻の皮の厚さ」の問題だと、百瀬先生は言ったのです。私は文系の学校生活が長いので、持ち出す喩えがどうしても文系的なものになりますが、理系の人、あるいはスポーツを熱心にやった人なら、別の喩えが出せるでしょう。

〇 キリスト教信仰でも、留まることは大事です。他の宗教的伝統、仏教や神道を知ることは刺激的ですし、有益でもありますが、キリストに留まる、キリストから離れないことが大事です。
キリスト教的な物言いに飽和すると、仏教やイスラム教が新鮮、時に魅力的に思えることもありますが、それは誘惑だと思わなければなりません。あくまでも、キリスト教信仰を深めるためのヒントとして学ぶのです。
また、新しい祈りの方法とか、神学思潮に触れることは必要ですが、あくまでもキリストを離れないようにしなければなりません。

とは言っても、若いうちは興味に任せて彷徨い出すものだと思いますが、彷徨い出したきりで、帰って来れなくなっては困ります。ある年齢を過ぎたら(私は間違いなく過ぎています)、新しい分野に手を出すにしても、「キリストに留まるためにこれを学ぶのだ」という目的をはっきり維持しなければならないと思います。

〇 しかし、「イエスに留まる」とは、具体的に何をすることでしょうか。 生身の人間ならば、すぐ横にくっついていればいいのですが、見えない方であるイエスの場合はどうでしょうか。これを具体的な行動に翻訳できなければ、イエスに留まるということは、空語に近いと思います。

カトリック教会は、それはとにかく秘跡に忠実に与ることだと言ってきました。特にミサです。秘跡とは何でしょうか。そこに行けば イエス・キリストに出会えると教会を通して神が約束し、その約束を人間が信頼する場所です。「神の約束」と「人間の信頼」が出会う場所です 。

私が修道会に入って良かったと思うことの一つは、ミサにほぼ毎日与ることができたことです。私は気が散りやすい性質です。まさに、何か面白い本や映画、芝居はないかと、フラフラと町に出て行きがちな人間です。
修道院に暮らしていると、グループの持つプレッシャーというものがあります。平気でミサをサボる度胸はなかったので、とにかく毎日ミサに与りました。結婚して、職業生活を続けていれば、私にはできなかったと思います。 世間の生活を続けながら、ミサに忠実に与り続けている人は本当に尊敬しています。

私たちがミサの多くは、凡庸といえば凡庸です。その実りは、当時はあまり実感しなかったけれども、今になってみると、毎日与り続けたミサの蓄積が私の財産です。

〇 私のメンター、アドルフォ・ニコラス神父がこう言っていました。「ミサの中に、全てのことはまとめられる。」
私はミサ以外に何もしなかったわけではなく、祈りの時間も取ったし、神学や霊性にも興味を持って勉強しました。しかし、毎日与った「ミサの中にまとめられる」ことがなければ、祈りや勉強の成果は、砂が指の間からこぼれ落ちるように、まことの実を結ぶことなく、散らばって消えてしまったでしょう。 私たちは、実を結ぶように召されているのです。

「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、 ・・私があなた方を任命したのである。」
                          (了)