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ガーベラ

 そのガーベラは、人が花にする期待を全て裏切るものだった。鬱々とした気持ちから人をふと引き上げるような芳香もなければ、ひらりと花びらを散らせて人の心を凪にするはかなさもない。そこに在ることで人を動揺させ、ひいては衰弱させるということが専門機関の研究で分かっていた。
 ガーベラのことで相談があると鐘村(かねむら)から連絡が来た。私はサングラスをかけ、膝下まで丈のあるジャンパーを着て車に乗った。乗る前に座席の足元やミラーの裏などにガーベラが生えていないか確認することを、未だに忘れてしまう。もしこのような密室空間でガーベラに遭遇したら危ないのに。サングラス越しでも目を突くように不快なほど、鮮やかで濃密な色をしている。
 横断歩道を親子連れが渡っていく。母親は型の古いサングラスに丈の長いダウンコート。子供はレンズに色がついた水中眼鏡をつけて合羽を着ていた。ガーベラの繁殖が広がってから見慣れた光景である。今日は気温が15度あるが仕方がないのだろう。そのガーベラはたんぽぽの綿毛のように、花粉を虫や動物に飛ばして個体としての繁殖地を広げていくという特異な性質をもっていた。肉眼では見えない花粉を家に持ち込まないように防護をしているのだ。
 鐘村は大学時代に入っていたハードダーツ同好会の同期である。穏やかな性格の男で、誰にでも優しいが自分から人に好意を示すことが無い。課題を見せることやDVDや本を貸すなど、正当な用事が無い限り人に声をかけることもない。彼と私は学部が違っていたが、彼は植物を愛していたので、私が受けていた必修講義にも、もぐり込んでいた。私としては彼のことを数少ない友人だと思っているが、彼に会うために危険を冒して車を飛ばすのは、少なくとも今はひんしゅくを買う行為だろう。
 鐘村の家に向かう途中、ガーベラをバーナーで燃やしている除草作業員を見かけた。突如、現れ自生し繁殖し始めたこのガーベラは原産地不明、変異の原因も未解明のまま世界中で今も広がり続けている。私がこうして車を走らせているのは、今は地方の大学で園芸学を教えている講師だが、日々忙殺されていた植物学者としての使命感が再燃したためだ。

「コートは脱いでもいい。けど、サングラスはかけたままで」

 そう言って鐘村は寝室のドアを半分開けた。昼間と思えないほど暗い部屋だった。薄手のカーテンに額縁のように細い光が透けている。おそらく窓を段ボールで潰している。

「まだ入らなくていい。机の上にガーベラを活けている」

 鐘村はその机がドアの陰になるように私を自分の後に立たせていた。私は身を乗り出し、ドアの隙間から覗いた。サングラスと部屋の暗さのおかげで、影が確認できる程度に抑えられていた。だが、不思議なことに色が分かる。強い光で眩んだ視界の中に閃く残像のように、オレンジのガーベラが点滅した。鐘村は隣の部屋のドアを開け、陽の光を見るように促した。動揺が少し和らいだ。

「ガーベラを確認する。話も中で聞こう」

 サングラスをかけ直して鐘村に続いた。鐘村は裸眼だった。
 ガーベラを見た時、息を呑んだ。頭状花序と呼ばれる花の中心部、従来のキク科に見られる小さな花の集合体が、そのガーベラにもある。一つ一つの小さな花は筒状花(つつじょうか)といい、柱頭が筒状に包まれている。
 机の上のガーベラは活けられている五本すべて、筒状花がすべて開いており、まるで頭状花序が腫れ上がっているようだった。開花した筒状花一つ一つから黄色い柱頭が、腫物から絞り出された膿のように伸びていた。腫れ上がった頭状花序は均等な半球ではなく歪んでいた。筒状花の萎れ具合によって、皺が寄っているように見える。まるで悪性の色素性母斑のようだ。
 鐘村が話し始めた。

「テレビもラジオも新聞もネットも見ないから、このガーベラのことも妹に教わって知ったんだ。散歩中に道端に咲いているのを切って来て活けて、今日で13日経った」

「ばかな。このガーベラと接触した人間は、ほとんどが一週間ほどで死んでしまうことが分かってる。頭状花序がこんなになるまで耐えられない。それにこの部屋、なぜどこにもガーベラが生えていないんだ? 花粉が出ていないのか? 本当に、こいつは生きてるのか?」

 机に屈んで花瓶を引き寄せた私に、鐘村は顔を近づけた。

「そうだよ。見て」

 そう言って鐘村はガーベラの舌状花(ぜつじょうか)と頭状花序の境目を指で広げてみせた。さっきよりひどい動揺に襲われた私は花瓶から離れて薄目を開けて彼の示すところを見た。
 舌状花とは、一般的には花びらと一緒くたにされている、花の中心部をぐるっと囲むように生えている笏(しゃく)のような形の花である。高校の生物で習うが、花びらを引き抜くと根元に役目を終えて痩せ細った柱頭と雄蕊の名残りがくっついている。これは筒状花が開花した後、筒状の花びらが広がって舌のような形になることからその名がついた。
 頭状花序と舌状花の境目には伸びかけの筒状花がびっしりと生えている。まるで人間の皮膚、その毛穴の一つ一つから小さな爪が生えている様子を眺めているようで、グロテスクだった。

「この伸び方だってそれぞれで、ほら、異様に飛び出してるやつとか、まちまちだろ」

 鐘村の言う通り、筒状花が成長しているのは確かだった。私はガーベラに背を向け、窓辺のヒーターに寄りかかった。明るい部屋でこのガーベラを直視していたら、衰弱は免れなかっただろう。
 鐘村は本題を述べた。

「よろしくね、鈴井」

 まあ、それだけ言われれば説明は充分だ。私は車から持参した研究道具を運び入れ、ガーベラの研究に取り掛かった。

続く

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