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海外の記憶 マレーシア

私がマレーシアと初めて関わったのはマレーシアのサバ・サラワク州から輸入していた南洋材の伝票処理をしていた新入社員の頃でした。当時はコタキナバルに現地事務所があり日本人駐在員もいました。昭和48年に入社した私は木材が仕入れ価格の2倍以上で売れているのを事務処理しながら、商社とはなんとアコギな商売をしているものだと驚いたものでした。お客との接待麻雀では、たとえお客が負けても負け以上の残念賞がついて来るって感じの派手なものでした。ところが翌年になると状況は一変します。仕入れ値の半分以下でしか売れず、赤字は溜まって行くばかりでした。それはともかくマレーシアはインドネシアと共に土人が住むジャングルの国というイメージが私の中では定着していました。

それから10年が経ち私がメルボルンに住んでいた頃の話ですが、銀行に勤める華僑系のマレーシア人と友達になりました。酒を飲みながらいろんな話を聞いてマレーシアの複雑さも少し理解出来ました。たまたまラーメンの話になった時に中華料理の麺は細くて腰がないとボヤいたら、彼がホッケンメンを食べに連れて行ってくれました。しっかりした太麺にビーフンを混ぜた汁そばでとても美味しかったので、それ以降はメニューにあればホッケンメンを頼むことにしていました。

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マレーシアは独立当時は天然ゴムと錫が主な貿易品でしたが、天然ゴムの需要低下や錫の枯渇などでそれに代わる輸出品が必要となり、西アフリカ原産のパームツリーをゴム林跡地に大規模に植林し、パーム油で世界一のシェアを取るまでに成長します。今は国全体ではインドネシアに抜かれていますが、企業別ではフェルダオイル社とサイムダービー社のマレーシア2社が1位、2位となっています。錫の方はセランゴール・ピューターが装飾品や土産物として有名ですが、70年代から閉鎖された錫鉱山の跡地は今ではデコボコの多いゴルフ場へと姿を変えています。

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豪州から帰国して少しした頃、マレーシアの担当となり、何度かクアラルンプールに出張する機会がありました。特にセランゴールの水道プロジェクトでは交渉が結構長丁場となり、1週間以上クアラルンプールにいることも何度かありました。当時はやっていたプロジェクトファイナンスを使って資金が不足しているセランゴール州政府に代わって新しい水道設備を整備しようという計画でした。簡単に言えば州が手に入れる水道代を担保にして、銀行から資金調達し、その資金で水道設備を作るというものでした。会議のない日にはゲンティンハイランドまでギャンブルを楽しみに行ったこともありました。何故かイスラムの国でもギャンブルが出来たのでした。夜はブキビンタン地区のアロー通りかインビ通りの屋台で食事をするか、KLプラザの中にある冷房の効いた店に行っていました。アジアっぽいけど皆んな英語が喋れて、イスラムっぽいけど明るくて、何故か落ち着いていられる不思議な街でした。

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マレーシアの建国の父はアブドル・ラーマンですが、今のマレーシアを作ったのは間違いなくマハティール首相です。1981年から22年の長い間政権を担当し、ルックイースト政策という日本を見習った経済開発を進めて来ました。もともと医師で貧困層への医療に取り組みながらウムノという統一マレー国民組織にも参加していました。彼は常にマレー系マレーシア人(ブミプトラ)優先政策を貫いた人ですが、実は彼の父はマレー系ではなくイスラム系インド人なのです。それでもマレー人は中国人に劣っていないということを主張し続け、マレー系優先のアファーマティブ・アクションが必要だということをマレー・ジレンマという本にも書いています。そして、自分が首相になるとまさに本で主張したことをブミプトラ政策として実行したのです。

私がマレーシアに出張していた80年代後半は三菱自動車との提携でプロトン自動車が生産を始めたころで、ブミプトラ政策の象徴としてもてはやされていました。私は個人的には、国内では保護政策でなんとかなっても国際的には無理が生じるだろうと思っていました。しかし予想に反しプロトン自動車はみごと輸出市場も開拓し、成長を続けました。ただ21世紀に入るとダイハツとの提携で出来た第二国民車プロドゥアがプロトン自動車に迫り、今ではプロドゥアが国内最大の自動車会社になっています。そしてプロトン自動車の方はその株式の49.9%を中国の吉利汽車が保有する中国系になっていまいました。プロトン自動車は成功だったのか失敗だったのか、自動車産業をマレーシアに定着させたという点ではやはり成功したと言えるのではないでしょうか。

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ルックイースト政策を一番助けた日本企業は多分、松下電器だったと思います。70年代にはすでにマレーシアに工場がありましたが、80年代では円高の影響もあり、日本から多くの家電製品の製造移管がなされ、当初はアジア地域への輸出用だったかも知れませんが、そのうちに日本にも逆輸入されるようになりました。

私が出張していた80年代後半はマハティール首相が絶対安泰という訳ではなく専制的な運営に対する批判も多く、支持母体のウムノでの内紛もありました。しかし、97年のアジア通貨危機でのマハティール首相の対応については個人的には大変立派だったと思っています。タイバーツ危機に端を発したアジア通貨危機はマレーシアをも襲いましたが、IMFの支援の条件であった緊縮財政や高金利政策・通貨自由化にただ一人反対し、リンギット通貨の固定制を維持し、他のアセアン諸国や韓国がもたつく中で早々と経済回復を実現したのです。アジア通貨危機自体も欧米諸国の投機筋がもたらしたものだと批判し、西欧諸国からは変人扱いを受けるほどでしたが、私はマハティール首相の方が正しいと思っていました。バンコックに駐在していた90年代に、欧州でのユーロ通貨導入により為替取引が激減し、職を失った外資系金融ディーラーが大挙してアジアに移住して来たのを私は目の当たりにしていたからです。そして彼らは欧米では許されないインサイダー取引、市場誘導などの手段をお構いなく実行して利益を上げていたのです。ちなみにタイバーツ危機では欧州銀行では痛手を被った銀行もありましたが、米国系では損失が出たという話は聞きませんでした。

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バンコックに駐在していたころに建てられたのが、クアラルンプールの象徴とも言えるペトロナスツインタワーです。イスラム教寺院のようにも見えるこのビルは高さ452メートル、88階建てですが、柔構造ではなく、海からの強風にも耐えられる剛構造なのです。アジア通貨危機が起きた97年にはまだ完成していませんでしたが、逆風にも拘らず98年にはしっかりと完成しました。まるでマハティール首相の信念が乗り移ったようなツインタワーです。



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