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海外の記憶 ベトナム

私より少し上の年代はベトナム戦争の時代に反米やベトナムに平和を!と叫んだ人たちが多く、高校生だった私の年代でも意識の高い高校生は政治活動に関心を持ち、学生デモに参加するものもいました。私は行動は取らなかったけれど、いわゆるシンパでした。しかし、目指していた東大入試が中止になると私の過激派に対する見方は変ってしまいました。東大を出て外交官になり世界の人たちと会うという私の描いていた将来像がつぶされた為、過激派は何をしてくれたんだという感じだったのでしょうか。幸い他の国立大に合格したものの、当時は大学が休校続きだったこともあり、すっかりノンポリとなり部室と雀荘に入り浸るどこにでもいる学生になっていました。もちろんそんなことは外交官試験を受けなかった言い訳にもなりません。同期の中にはちゃんと勉強して外交官になっている人もいるのですから。

始めから話が大きくそれてしまいましたが、そのくらいベトナム戦争は私の青春と縁の深いものでした。ケネディの暗殺後、ジョンソンが大統領になると、それまで軍事顧問という立場をだった米軍が直接戦争に参加する形で空爆を開始、一方、北ベトナムは中国やソ連から武器供与などを受けて対抗しました。70年代に入ると南ベトナム内部での抗争やクーデターが起こり、ベトコンのゲリラ戦に翻弄され、南ベトナム側で張り切っているのはもはや韓国兵くらいという状況になっていました。ベトナムの仏教憎が抗議の焼身自殺をする姿を映すテレビの映像は今でも目に焼き付いています。私が大学を卒業した1973年に南北停戦が成立しますが、アメリカは最早ベトナムに介入する気はなく、2年後の1975年にはサイゴン、今のホーチミンが陥落し、翌年にはベトナム社会主義共和国が誕生しました。

1986年にソ連のベレストロイカや鄧小平の改革開放政策に呼応するようにドイモイ改革政策を発表したベトナムでしたが、その前から始まっていたカンボジアへの侵略・占拠に対する国際的な非難、経済制裁の中で外資の呼び込みは全く進みませんでした。カンボジアからの撤退により1991年に西側諸国の経済制裁が解除され、その頃から漸くベトナムにも改革開放の風が吹き始めました。

私が初めてベトナムに行ったのは1994年で、ベトナム事務所の整備が急がれていて、採用したスタッフの研修の為、私がバンコックから手伝いに駆り出された訳です。

その頃ハノイで外国人が泊まれるホテルは1901年に出来たホテル・メトロポールくらいでした。広いロビーがありフランス植民地時代を思わせるホテルでしたが、とにかく古いのです。エレベーターはなく4階まで上るのが大変でした。ただ朝食はアルミ製の容器と共に出てきたカフェオレとクロワッサンだけでしたが、とても美味しかったことを覚えています。事務所も白亜の個人用家屋のようなところで多分、戦前の事務所はこんな感じだったのかなと思わせる木製の机と椅子が並んでいました。ハノイの街は静かで落ち着いた感じでした。通りには女子大生が白とライトブルーのアオザイの制服を着て並んで歩いているのが、とても新鮮に見えました。写真は全く無関係です。

一方、ホーチミンの街はホンダのカブが走り回り、街中が埃っぽく、賑やかでまるでハノイとは別の国に来たようでした。当時「ホンダ」はオートバイを表す一般名詞のように使われていました。まだホンダの現地生産は始まっていなかったので、タイからの中古車がほとんどだったと思います。建物は二階や三階が住居になったお店がならんでいて他の東南アジアとなんら変わらない風景でした。ただ看板の文字だけはローマ字に補助記号をつけたようなベトナム語がとても印象的でした。

ベトナムは10世紀まで1000年近く、中国に朝貢する属国・越南国だったのですが、その後は独立国となりゴー朝から20世紀のグエン朝まで続きました。中国の属国時代は漢字が使われていましたが、独立後は漢字で表現出来ない言葉をチュノムというベトナム風漢字で補っていました。ただそれは飽くまで北部ベトナムでの話で、南部ベトナムには林邑国・チャンパ王国というインド系バラモンが作った言われるヒンドゥー文化の国が2世紀から19世紀までの長きにわたり存在していたのです。この国はサンスクリット系のインド文字を使った遺跡も何か所か見つかっているものの不明な点が多く、漢字文化も受け入れていたと思われます。いずれにしても19世紀にベトナムを植民地としたフランスは漢字やチュノムを止めさせ、ローマ字に補助記号をつけた文字に統一させた為、ベトナム全土がこの文字を使うようになっていたのです。

事務所に着くとすぐに会議室での研修が始まりました。会社の歴史や組織、仕事の進め方などを教えるのですが、講義を聞くときの真剣な目つき、講義の後の質問の多さなど、私にはタイ人のスタッフより数段上の人たちだなと感じさせるものでした。研修のあとベトナムの有名国立大学を卒業した人たちが多いと言うことを聞いてなるほどと納得したものでした。まだ米国との国交回復はなされていなかったので、当時、就職先として日本企業は一番人気だったのです。

まだ外資がどんどん入って来ることもなくホーチミンで泊まったホテルもソ連の援助で建てられたという大きいけれど、とても古いホテルでした。当時、外国人用のホテルが全く足りていなかったと見えてオーストラリアの大型客船をずっと港に横づけさせてホテル替わりに使っていました。私はそこに泊まってはいませんでしたが、船内にいいバーがあって飲みに行ったことを思い出しました。

その頃、何故か野村證券がベトナムに工業団地を作ろうと日本企業を誘致していました。バブルは弾けてもまだまだ証券会社が元気な時代だったのかも知れません。当時不安定だった電気・水道などを安定供給させ日本語での設営対応が出来るなどのサービスが当時ベトナムに不案内だった日本企業にとっては便利だったはずですが、当初はそれほどうまく進んではいなかったと思います。ただ円高によるアジアへの工場移転の動きは確実に進んでいて、その後は徐々に工業団地も埋まっていったようです。

野村に次いで住友商事も別の工業団地を作りましたが、最終的にはこれらの工場誘致は概ね成功だったようです。ベトナム政府はベトナム北部つまり、もと北ベトナムだった地域の開発を望んでいたようでふたつとも北部にある工業団地でした。当時はバンコックでも工業団地の造成が盛んで、税金の優遇措置をつけて企業誘致をしていましたが、ベトナムもそれを見習い、法人税は4年間免税、その後も9年間減税など破格の優遇措置を採っていて、それも成功の要因だったと思います。

話はさかのぼりますが、1979年にシドニー事務所の総務部にベトナム人が働いていましたが、彼は当社のサイゴン事務所を最後まで守った人で社会主義に変わったホーチミンで迫害を受け、ボートピープルと呼ばれた難民として豪州に流れ着いた人でした。1983年に私はメルボルンに転勤となりましたが、その当時、メルボルン郊外のベトナム人が多く住んでいる地域に余り意識もせずにフォーや生春巻きなどのベトナム料理を食べに行っていました。考えてみればベトナムが統一されサイゴン市がホーチミン市に変わったこの頃に小さなボートに乗って逃げて来た人たちの村だったのだな〜と改めて思い出しました。

ベトナムはアメリカに勝った唯一の国であり、同じ共産主義でありながら中国とも一線を画す誇り高き民族です。国としてはなかなか付き合うのが難しい国ではありますが、今では中国・韓国を除けば日本で在留者の一番多い国になっていると聞きます。中には不当な条件で働かせたりする会社などもあり、米国務省からも人権侵害問題として指摘されているようでとても残念です。当時の研修時の印象に影響されていることもあるかも知れませんが、私から見るとベトナム人は東南アジアの中で一番しっかりして、気骨があるように感じます。人手不足を補ってもらう以上ちゃんとした扱いをして欲しいものだと願うばかりです。

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