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日本人の心 23 舞妓の未来

少し前に元舞妓さんがユーチューブで客に酒を飲まされたり混浴を強制されたことを暴露していました。今どきそんなお客が存在することにびっくりしますが、ありえないことではないです。そもそも普通の飲食店なら未成年の女子が酒席に同席しているだけで風俗営業取締法違反ですが、京都の花街では未成年の舞妓さんが酒席についても「伝統芸能の継承者」として特別扱いされています。京都労働基準局は花街全体を労基法上の事業場と認定し芸妓は労基法に従うべきとしていますが、芸妓組合側は舞妓さんは労基法上の労働者ではなく芸能人の「見習い」なので問題ないと主張して議論は平行線のままずるずると現状が認められているようです。

ここで余り舞妓に縁のない方の為に補足説明をさせて頂くと、舞妓は置屋で寝起きし芸事や作法を習いますが、実際に仕事をするのはお茶屋と呼ばれるお座敷です。そこに出される料理はまた別の仕出し屋がお茶屋に届けるという分業体制になっています。基本的にはお茶屋の女将が客の希望に従いお気に入りのいる置屋や仕出し屋と連絡を取り、客との精算も全て女将が行います。その為、戦後も置屋が寄宿舎なのか人材派遣業なのかなどその位置づけ自体も議論されることになります。舞妓は置屋(寄宿)にいる間は仕事ではなくお客に呼ばれた時点から労働が始まるとか、稽古の時間は労働なのかなど様々な議論があり京都市の指導体制も微妙に変化しています。夜10時以降の仕事をしない、月2日は完全な休みを取らせるなど、待遇改善や環境整備を進めることで両者が歩み寄りなんとなく現状を維持していると言うところでしょうか。花街の置屋では現在も中学を卒業したばかりの地方出身の少女が置屋に住み、仕込み・見習いとして少しばかりの小遣いをもらいながら暮らしています。食事を提供し踊りなどの習い事をさせる他、着物なども貸与するので、置屋としては舞妓は未成年でもお茶屋などに派遣して花代を稼いでもらわないと必要経費も払えず事業の継続は出来ないのでしょう。

この辺りのシステムは相撲部屋と似ているところがあります。若い力士は部屋に住み、ちゃんこを頂き、浴衣・まわしなどが支給され、親方が相撲の技を指導します。大相撲では十両・幕内の関取だけが給料をもらえますが、実際には幕下以下でも月4万から8万円程度の小遣いをもらっているようです。相撲部屋では大相撲を一括管理する相撲協会から力士育成の補助金が出るので充分やっていくことが出来ます。一方、花街では舞妓が20才になると芸妓と呼ばれ、置屋から独立して個人の採算でやって行くことになります。芸妓が置屋に残れば寄宿代や看板貸し代などあらかじめ決めた利益配分を受け取ることになりますが、いずれにしても置屋やお茶屋は相撲協会のような後ろ盾がないので自力で採算を取り生きていかなければなりません。人権意識がほぼ存在していなかった封建時代のシステムが多少待遇改善はされているとは言え、民主主義となった今の時代まで続いていることはある意味「奇跡」と言えるかも知れません。現に他の県では芸妓はいても舞妓は殆ど存在していません。でも始めに書いたような酷い客がいることを考えるとやはり児童福祉法の精神に立ち返り、きちんと労基法・風営法に従うことが必要だと思います。今は団員がいじめで自殺し大変評判が悪い宝塚ですが、宝塚音楽学校のように入学金や月謝をちゃんと払う舞妓養成学校を作り、置屋に所属する舞妓の年齢は18才以上22才くらいまで引き上げることを考えるべきだと思います。京都市が伝統芸能の継承が必要と言うならちゃんとその学校に補助金を出してもいいと思います。京都市が大目に見ている未成年の舞妓が酒席でお酌をすることは決して継承すべき伝統文化の一部ではないと思います。

ついでですが少しばかり舞妓や芸妓の歴史を調べて見たのでそれを振り返ってみたいと思います。明治5年に芸娼妓解放令が発令され、それまで普通に行われていた娘の人身売買は禁止され芸妓の「年季奉公」はなくなります。しかしながら実際は芸妓家業契約と消費賃貸契約の2つの契約を結ぶことで前借金に縛られた身代金的「年季奉公」契約は継続しました。下宿代、食事代、習い事のの授業代などで借金は減るどころか増えることも多く、年季が終わっても前借金が残るのが普通で、一般的には第二の芸妓置屋に移籍することが前提となっていて、中には娼妓(娼婦)置屋に売られることもあったそうです。この時代にはお金持ちが借金を肩代わりして芸妓を花街から「水あげ」することもあったのでしょう。明治時代の政治家には芸妓を奥さんにしている人も普通にいましたね。

ところが明治33年に国が統一管理する形で「公娼制度」が導入されると踊りなどの芸も持つ芸妓は娼妓と明確に区別され、娼妓は国、芸妓は都道府県による管理となります。しかしながら第二次大戦の終戦間近に不幸なことが起こりました。政府による贅沢禁止の流れを受けて高級なお茶屋や料理店は閉鎖に追い込まれ下級待合のみが「慰安所」と名を変えて事実上の私娼(慰安婦)として公娼制度に組み込まれて行きました。戦後の混乱期を終え世の中が落ち着いて来た昭和29年には女子年少者労働規則が作られ未成年者女子が酒席に侍る業務や遊興的接客業務は禁止されることになります。この辺りから置屋と芸妓の関係についていろいろと議論がなされ始めました。昭和33年には売春防止法が施行されると芸妓は職業人としての立場がより明確となり京都労働基準局は京都花街全体を労働基準法の事業場と認定し18才未満の11時以降の深夜業務禁止と月最低2回の休日を勧告します。そんな経緯を経て、今では舞妓の深夜業務は夜10時までと1時間早まったものの一般労働者より遥かに少ない休日だけで働いています。

私も何度か舞妓さんと話をしたことがありますが、彼女たちはテレビや修学旅行で見た舞妓さんの姿に憧れて京都にやって来たと言う人が多く悲壮感など微塵もなく明るく元気に京都の生活を楽しんでいます。そんな舞妓たちを危険な大人から守ることは伝統を守る京都市の責務と言っても過言ではありません。ただ伝統文化の美名の元、法律が守られていない状況を看過することがあっていいはずはありません。舞妓や芸妓の文化が誰からも後ろ指を指されることのないまっとうな伝統文化として継承されるよう新たな対応について関係者で議論を尽くして欲しいものです。

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