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海外の記憶 インド

私が小学生のころにインドのネール首相が日本にやって来ました。多分私が名前を覚えた初めての外国要人かも知れません。学校では上野動物園の象のインディラをくれた人と教えられた記憶があります。ネール首相ありがとうって感じだったと思います。

子供の頃住んでいた私鉄駅の近くにインディアンカレーと言う名のカウンター席だけの小さな店がありました。看板にはインド人ではなく、羽根をつけたアメリカインディアンの顔が描いてあるのです。隣に和菓子の店があってそこにはよく行ったのですが、インディアンカレーはいつも外から見ているだけでした。中学生になって小遣いももらうようになると一人でその店に行ったことがありました。何故こわごわかって?実はこのお店のおっさんがこわいことで有名で、メニューはインディアンカレーと支那そばの2つだけ。友達がラーメンを注文したら、うちにはラーメンはおいてねえ!!と追い出されたそうなのです。私は支那そばではなく、お店の看板通り、インディアンカレーを頼みました。出てきたカレーは黒いけどサラサラのスープみたいなカレーでとても美味しかったのです。アメリカインディアンがカレーを食べていたなどとは聞いたこともないのですが、不思議な達成感を感じながら店を出たことを今でもよく覚えています。あの怖いおっさんは中国戦線か南方戦線から帰還した元日本兵だったような気がします。

インドは私にとってはずっと近くて遠い国でした。それが57歳になって初めてインドを訪れることになりました。一度だけそれもニューデリーに行っただけなので、こんなにも大きくて複雑な国を語れるはずもありませんが、これまで海外で出会ったインド人の友人や取引先の人、空港などでよく見るインド人、日本にいるインド人など身の回りでなんとなく身近に感じることが多いインドでもあり少し書いてみようと思います。

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この頃、インドではバンガロールがハイテク都市として最先端のイメージが出来つつあり、ボンベイはムンバイと名前を変え、映画産業が盛んになりボリウッドと呼ばれたりしていました。でも、やはり全体としては後進国のままで今でも様々な問題を抱えています。

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敢えて庶民的な場所に行ったこともありますが、街の汚なさは衛生観念が違うというレベルではない感じがします。

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ニューデリーからムンバイまで高速鉄道の計画があるというので現地を見に行ったのは2007年秋のことです。当時はBRICSと言ってブラジル、ロシア、インド、チャイナ、サウスアフリカの五か国が今後、大きく成長するとアメリカの証券会社があおっていた頃で行け行けどんどんと言う時期でもありました。

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インドで仕事をするには忍耐力が必要だとよく言われます。とにかく議論好きでよくしゃべります。又、地方分権もはっきりしていて州をまたぐ鉄道のようなプロジェクトは一筋縄では行きません。道路一つをとってもみても同じ道路を走っているのに州が変わると急に舗装道路がガタガタ道になったりして州の隔たりを感じます。私からみるとインドと中国は正反対な国だと感じます。中国なら鶴の一声で新幹線も新しい町でさえ1年か2年で出来ちゃいます。ちなみにニューデリー・ムンバイ間は未だに高速鉄道は走っていないようです。

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インドでは8割以上の人がヒンドゥー教徒と言われますが、厳密にはヒンドゥー教という宗教を誰かが始めたわけではなく、イギリス人がインドの土着宗教全般をヒンドゥー教と呼んだことからその名が定着したようです。今ではシヴァ派とヴィシュヌ派が主流ですが、昔はブラフマーを含めた3神を祭っていたそうです。そもそもヒンドゥーと言う言葉自体がペルシャ語でインドを意味する言葉で、昔は国の名前もヒンドゥスタンでした。もちろんスタンがついているのでインド北部が中央アジアの民族に支配された頃のことだと思います。

インドでは牛はシヴァ神が乗り物として使っていたこともあり聖なる動物として食するのはもちろん、殺すことも禁止されています。でもインド人が皆、牛肉を食べないわけではありません。2割弱の人はヒンドゥー教徒ではないので牛肉を食べるのです。それも人数にすると2億人以上でこれだけでも大国となります。ちなみにインドはインドネシアに次いで2番目にイスラム教徒が多い国なのです。イスラム教徒はムガール帝国の時代からニハリとかパエという牛肉の煮込み料理を食べているそうです。牛の飼育頭数は1億9千万頭で、ブラジルに次いで世界2位、牛乳の生産もアメリカに次いで世界2位、バターの生産はなんと世界1位です。ついでに水牛も1億頭いてもちろん世界1位です。

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ヒンドゥー教の原型であるバラモン教はもともと紀元前に西方からインドに入って来たアーリア人が土着のドラヴィダ人を支配する為に作られたとも言われていて司祭階級バラモンを頂点に戦士・王族がその次、そして庶民、奴隷で番外に不可触賤民という序列が出来ています。このヴァルナ、一般的にはカーストと呼ばれる制度は表向きは廃止されていますが、民主国家になっても永く染み込んだ風習や慣習としてなくならないようです。事務所の現地職員の間でも、どの出身かで仕事の中身だったり、上下関係だったりでなにかと配慮が必要だそうで苦労も多いようです。

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インドには22の公式言語がありますが、実際の言語数は30とも200とも言われ、方言に至っては1600とも2000とも言われています。大雑把に言うと ニューデリーを中心とした北の地域はアーリア言語、南部はドラヴィダ言語から来たもので、現在はニューデリーのヒンディー語が公式共通語ですが、なかなか共通語とならず今でも廃止する予定だった英語が実質的な共通言語になっています。

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仕事の合間にニューデリー観光も少しだけ、駆け足でまわりました。

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この建物は16世紀のもので、ムガール帝国の第2代皇帝フマーユーンの墓廟で世界遺産になっていますが、この墓廟はインドで一番有名なあのタージ・マハルの原型とも言われています。タージ・マハルはムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き妻の為に建てた墓廟ですが、ともにインド・イスラム建築の頂点とも言える素晴らしい建築物です。ムガール帝国はティムール朝の子孫であるバーブルが興した国ですが、妻はチンギス・ハーンの次男の家系でともにモンゴル帝国の末裔であることからペルシャ語でモンゴルを意味するムグール国と呼ばれ、それが転化してムガール帝国になったそうです。

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インドは10世紀頃には北部はイスラム教勢力が入り込み、南部はバラモン教の勢力が続いていました。ムガール帝国も外国勢力だった為、ここに祀られている2代目フマユーンの時代ではまだまだ安定せず、3代目のアクバルになってようやくインドをほぼ手中に収めることが出来ました。アクバルはバラモン教など他の宗教を認め、カースト制度を利用し貴族による間接統治をすることで全国を制覇したのです。そして19世紀半ばにムガール皇帝がイギリスによってビルマに追放され、300年の歴史を終えるまでインドはずっとイスラムの国だったのです。第二次大戦後に独立する際、イスラム教徒はインドの西と東に分かれてインドから分離し、パキスタンとバングラデシュ(当時はパキスタン)になったのです。つまり、お祭りと沐浴だけでゆるやかな多神教のヒンドゥー教徒に中央のインドを渡して英国連邦の一員としたわけです。

これから後の写真はイギリス統治時代の建物などです。全てラジパス通りにある政府の庁舎や門などです。

下の天蓋の中にはインド皇帝を兼ねていた英国王ジョージ5世の像があったそうですが、独立20年後に撤去されたそうです。この後にガンジーの像を置こうという動きがあるそうですが、例によって、いまだに実現はしていません。

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下の凱旋門のような門はインディア・ゲートと呼ばれる戦争慰霊碑で第一次世界大戦などで戦死したインド陸軍兵やイギリス軍兵士の名前が刻まれています。

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1972年に東パキスタンがパキスタンから独立する際には東パキスタンの独立を助ける為に戦ったインド兵士の為に門の下に四隅に火が灯され構造物が置かれインド不滅戦士の炎と呼ばれています。

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インドにはヒンドゥー教徒以外にターバンを巻いて長い髭をつけたシーク教徒がいます。パンジャブ地方に多く住み、裕福で従順な人が多かったこともありイギリス人に重宝されました。今でもロンドンの高級クラブなどの門番にはシークの人が多いです。シークとは弟子という意味のパンジャブ語で導師であるグル・ナーナクの弟子なのです。また事業家や貿易商も多く、世界中で活躍している為、なんとなくインド人のイメージになっていますが、ヒンドゥー教徒のインド人はターバンをつけません。明治以降神戸に住んでいた貿易商などはシーク教徒だった為、日本でもインド人というとターバンというイメージが定着しました。またプロレスの世界でタイガー・ジェット・シンがパンジャブ出身のシークという触れ込みで悪役に徹していた為、シークは残忍だというイメージも古い日本人の一部には残っていますが、私がバンコックで親しくしていたシークの経営者は大変な紳士でお酒も飲まず、仕事一筋でまるでユダヤ人のように感じられました。

ロンドンでは借りた家のオーナーがインド人でキッチンがカレー臭くなるのでインド人には絶対に貸さないと言っていたのを思い出します。ロンドンにはインド料理店が大変多くいろいろなレストランでカレーを食べました。日本で食べているカレーはイギリス海軍経由で入って来たものだと言われますが、私はイギリス海軍でコックをしていたインド人がイギリス人の舌に合わせて定番のルーを作ったのではないかと睨んでいます。ケニアで食べた料理はまさにインド風アフリカ料理でした。

ニューデリーでももちろんカレーを食べましたが、全然辛くないし、熱くもないのです。考えてみればインド人は手でカレーを食べるので余り熱いのは駄目でしょう。でも辛くないのは何故でしょう。日本のカレーは本場とは別物だと理解していましたが、やはり別物でした。インド自体これだけ大きい国ですから同じ香辛料の組合わせで統一されているわけはありませんし、地域やコックの違いでいろいろな香辛料のブレンドを楽しむのが本場のカレーなのでしょう。何しろ毎日カレーを食べている国なのですから。



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