見出し画像

海外の記憶 シンガポール

私が初めてシンガポールに行ったのは1983年頃でした。当時メルボルンに駐在していて、そこから会議に出席する為でした。シンガポールでは事前にいろいろな注意事項がありました。つばの吐き捨て、ガムの持ち込みや噛むことも罰金だと言われて驚きました。今は知りませんが、当時はむち打ちの刑もありました。麻薬は運び屋でも死刑です。

自動車の数も制限されていてナンバープレートの値段がめちゃくちゃ高いのです。記憶が曖昧なので正確ではないかも知れませんが、車を購入するのに日本の3倍くらいはお金がかかったと思います。罰もお金、権利もお金で買うそんな印象がありました。街にはまだまだ屋台が並んでいてホーカーと呼ばれていました。最近では食べ物屋台が屋内に移されホーカーと呼ばれていますが、当時は食べ物屋だけでなく、90年代のバンコックのようにいろいろな屋台があって、ブランド品や高級時計の偽物グッズがたくさん売られていました。私もラコステのポロシャツをたくさん買い込んで帰りましたが、洗濯するとめちゃくちゃ色落ちして他の洗濯物に色が移って、かえって高いものについてしまいました。

会議の合間に行ったのはタイガーバームガーデンという中国風の庭園で虎印の萬金油で財をなした胡文虎・胡文豹兄弟が戦前に作ったものでした。極彩色に飾れた伝説や神話に出てくる人物像だとか動物像が庭園のあちこちにありました。なお、この庭園は今ではハウパーヴィラという名前で中身も一新されているようです。

シンガポールはリー・クアンユーが作った国と言っても過言ではありません。1963年にマレーシアのアブドラ・ラーマンと共にイギリスからの独立を果たしたシンガポールでしたが、マラヤ人優先政策に反対したことからマレーシア連邦を追われ、都市国家シンガポールとしてやって行かざるを得なくなったのは独立からたった2年後の1965年でした。その時の人口は190万人にも満たないもので資源もなく、国防もないことから国家として成り立つのか不安視する国もありましたが、何とか独立国家として国連への加盟が認められます。リー・クアンユーが偉いのは決して華僑優先ではなく、マレー人もインド人(主にタミール語族)も平等に扱ったことで、今でも学校では英語と共に民族の言葉も教えているそうです。また当時から道路や名所案内などは英語を含めた4つの言語で書かれていました。

独立前は容共派とも組んでいたリー・クアンユーですが、独立後は共産主義とは距離を置き非共産諸国で東南アジア諸国連合を作り自由諸国の中でその地理的な利点を活かして発展して行きます。始めは東南アジアの貿易ハブ港として成長し、続いてチャンギ空港をアジアのハブ空港として作り上げます。私がメルボルンから到着したチャンギ空港は完成してまだ2年のピカピカ空港でターミナルは一つだけでしたが、それでも私にとっては何でこんな大きな飛行場が必要なのかと思うほど巨大なものでした。この頃、シンガポールは運輸サービスだけでなく、ジュロン地区の石油化学工業、アジアの金融センターとして十分発展していましたが、その後も40年近く国際会議誘致、IT産業、観光業など世界の動きに合わせるように発展し続けています。その間、私も延べ20回以上は出張したと思います。

シンガポールはいつの頃からか微笑みの北朝鮮・明るい北朝鮮とも呼ばれるようになります。リー・クアンユーが作った人民行動党が9割を超える議席を持ち、リー一族が主要な地位を独占し国を支配しているからでしょう。確かに今でも息子のリー・シェンロンが首相で、その妻は国有資産を管理するテマセク・ホールディングス会長ですから言い訳は出来ないのかも知れません。しかしながら家族で国を経営してはいても、その中身は北朝鮮やアフリカなどの独裁国家とは全く違っています。基本的に自由と平等の精神を持ちながら中国人的な現実主義で舵取りをする類まれな国と言えると思います。そして中国人をよく知っていたリー・クアンユーだからこそ汚職の排除に注力すると共に個人住宅を公社が用意し、出来る限り住宅の不動産投機をさせない工夫もしていました。多分シンガポール人の9割以上の人が自分の家を所有していると思います。

シンガポールの住宅と言えば話は70年代にまでさかのぼりますが、我社のシンガポール支店長宅を3億円で購入した時のことを思い出しました。シンガポールで一戸建てなどほとんど見られませんが、当時は大きな庭付きの豪華な家が購入出来たのです。この社宅が東京国税局の税務調査でやり玉に上がり、根掘り葉掘り調べられました。不正な支出をこの家の代金に上乗せしたのではないか、と疑っていたのです。私は経理の担当者として要求されるもの全てを取り寄せ調査に協力しました。もちろん我社は白ですから。余談ですが、この後、豪州転勤に際して調査官たちから送別会をしてもらうという前代未聞のことがあり部長が駄目だ断れというのですが、課長が俺が責任を取るといって内緒で送別会に行かせてくれたことを今でも思い出します。

話がだいぶそれてしまいましたが、シンガポールと中華人民共和国との関係も特筆すべきことかも知れません。リー・クアンユーは鄧小平の改革開放を支持して、天安門事件の時も軍の介入に対し、私でもそうすると理解を示しただけでなく、翌年には中国との国交を正常化し、自由諸国が中国と距離を置くようになったこの時期に蘇州工業団地の立ち上げに国として全面協力しました。東南アジアの有力華僑と共に今の中国発展の基礎を作ったと言えるかも知れません。もちろん土地と人口が限られたシンガポールにとっても蘇州工業団地は重要な事業だったことは間違いありません。実はこれより前の1979年に華語普及運動を開始し、シンガポールの放送局は全面的に中国標準語であるマンダリン語を使うことになったのです。これに対しシンガポール国内でも華僑優先という批判もありましたが、いろいろな中国語の方言が話されていたシンガポールでマンダリンへの統一を図ることで今後、伸びていくであろう中国との取引に備えたものではないかと私は想像しています。リー・クアンユーの祖国中国の改革開放に対する思い入れは益々強まっていったようで2010年にはシンガポールに鄧小平の記念碑を建てています。

90年代にバンコックから観光で行った時に面白い経験もしました。セントサ島に渡るロープウェイの乗り場近くにインド人風の蛇使いがいて、とても大きな蛇をお客さんの首に巻きつけたりしていました。私も若かったせいか、これに挑戦し蛇を肩に乗せてもらい緊張しながら作り笑いをしたことを覚えています。後は熱帯雨林の中にあるような動物園とナイトサファリが記憶に残っています。軽便自動車みたいな乗り物に乗ってだだ広い動物園を回りました。暑いシンガポールにはピッタリの乗り物でした。食べ物ではやはりフィッシュヘッドカレーでしょう。魚の頭が丸ごと入ったカレーでシンガポール特有のものらしく、南インドから来たインド人がそれまでは捨てられていた魚の頭を使ってカレーを作ったのが始まりと言われています。インドネシア人が好きなサテー、中華麺のホッケンミーなどアジア中の食事が集まっていて食事も国際的です。

もう一つの思い出はラッフルズ・ホテルに行った時のことです。ロビー近くのカフェはおしゃれでセレブな雰囲気の中でお茶を楽しむことが出来ますが、そこを抜けて長い廊下の一番奥にあったホテルバーでのことです。昔ながらの木製のテーブルと椅子があって雰囲気よくビールを飲める場所なのですが、つまみに出される殻付きのピーナッツが問題なのです。お客は皆この殻を床に捨てるのです。昔からの風習だそうで、床は殻で足の踏み場もないという感じになってしまいます。今はどうなっているのかとても知りたいところです。

ここに掲載したシンガポールの写真は2007年に行った時のものでこれが最後のシンガポール訪問でした。当時はマリーナ地区が開発中でしたが、まだマリーナ・サンズは完成していませんし、ユニバーサル・シンガポールも全く出来ていなかったです。それでも新しい建物がどんどん出来ていてフルーツのドリアンによく似たエスプラネード劇場には驚かされました。下の写真は一見すると歴史的建造物にも見えますが、チャイナタウンの近くにこの2007年に出来たばかりのピカピカの寺院でした。

建物だけでなく、主要産業もどんどん新しくなり、変化し続けるシンガポールは今や総合評価ではアジアのNO.1の金融センターとなり、また国際会議・観光・ショッピングでも集客力は抜群ですが、これらの動きを支えているのはシンガポールの低税率とそれに惹かれてやって来る新しい企業や有力なビジネスマンたちなのです。外から人が喜んで入って来て住みたがる独裁国ってとっても不思議ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?