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海外の記憶 雲南省・昆明

1986年に突然、雲南省・昆明に出張が決まりました。8年近く過ごした豪州から帰ってきたばかりで感覚的には英語さえ出来れば海外は問題ないという感じで出かけました。当時中国に行くには中国側からの招待状が必要で、それをもとに短期ビザを取得することになります。中国との国交回復から15年が経っていましたが、まだ外国人が中国内の都市に自由に行くことは認められていませんでした。

成田から広州まではJALで行けましたが、そこからは中華民航です。昆明までの直行便はなく、途中、南寧空港で乗り換えて昆明に向かいます。当時の中華民航は遅延や欠航も多く、帰国の際には少し苦労もしましたが、行きは特に問題なく到着しました。この頃の中国との貿易は基本的に春と秋に広州で行われる交易会に世界中から人が集まって商談をすることから始まりました。我々は交易会とは別のルート開拓の為、昆明までやって来たのでした。

当時の交渉はとてものどかなものでした。大きなテーブルを挟んで中国語での交渉ですが、正式な通訳はいないので中国語に堪能な担当者が交渉の当事者になり、重要なことについては少し時間をもらい日本側で打ち合わせをして、また担当者が話し出すという感じです。会議に出てくる相手側の人はみな人民服を着ています。生地の良し悪しはあるかも知れませんが、共産主義の国らしく平等です。

会議の席には取っ手がついたお茶碗と花柄の派手な魔法瓶が置いてありました。ただ日本と違って茶碗の中に予めお茶の葉っぱが入っています。自分でお湯を入れたら茶碗を揺らして葉っぱをまぜた後、蓋を少しずらして、葉を飲み込まないように注意しながら、隙間から出て来るお茶をすするのです。葉は追加してくれないので、お湯を入れるだびにお茶は薄くなって行きました。ちなみにプーアール茶は雲南省の特産品です。

夜は歓迎の宴で相手側のトップが口上を述べた後に乾杯です。中国では乾杯とは盃を空にすることだと習っていたので、最初は小さい盃の白酒をぐいっと飲みましたが、これが猛烈に強いのです。とても無理と思ったら近くにいた部長が桂花酒に切り替えるようにしてくれました。食事の間次々と誰かが立ち上がってはなんとか先生に乾杯と言っては乾杯するので最後はもうフラフラでした。

翌日の夜はこちら側が答礼として宴会を主催します。この宴会の時だけは知らない人が多く参加していました。商談はなかなか進んでいませんでしたが、友好ムードだけは満点です。結局は肥料を買う側の我々が前金を出すことで彼らの仕入れや製造コストを負担し、丸抱えで購入することになりました。

当時は日本の外為法も厳しくて、そんな丸抱えファイナンスを日本から出すことなど不可能でした。そこで出てくるのが香港です。香港の会社を経由することで全ての問題が解決されるのです。

当時、外国人が使える通貨は兌換券と呼ばれ価値は人民元と同じですが、確か使い残しても外貨には戻せなかったと思います。又、公園や施設の入場料も外国人用は窓口が別で何倍も高い料金でした。なんとなく不公平に感じますが、払える人からは取ると言うことでしょうか。

私はせっかくの機会なので少し市内を見たいと思い朝早く近くの翆湖のほとりをめぐりました。カメラを持っては行ったのですが、以外と人が多く、スパイと間違えられては困るのでカメラはやめておきました。湖のまわりには民族衣装の女の子がいて、日本語で百円、百円ときれいな刺繍のお土産品を売り込みに近寄って来ました。えっこんなところで日本語とびっくりしたのを覚えています。

その後、私はバンコックに転勤し、家族で石林と大理を観光する為に昆明に行ったことがあります。

出張した時から7年しか経っていませんでしたが、昆明の街はまるで違った街のように大きなビルが立ち並ぶ大都会に変身していました。 

もちろん当時から路上に床屋やマッサージ屋があって活気はあり、都会ではありましたが、小綺麗なショピングセンターなどはなく、古臭い店が並んでいたように思います。

昆明は800万人の大都市ですが、どうしてこんなに発展するのか不思議です。いや私が知らないだけで他の地方都市もどんどん発展しているのかも知れません。雲南省はタイ族のルーツとも言われ、シーサンパンナという町からチェンマイ、アユタヤ、バンコックと南下して来たそうです。

食べ物の思い出としては過橋米線というラーメンのような汁そばを食べたことです。鶏油が一面を覆い、熱い汁が冷めないのですが、その由来が特に有名で科挙の試験の為に小島に籠もった亭主の為にその妻が作ったのが始まりと言われています。もちろん亭主は試験に合格しました。

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