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海外の記憶 ミャンマー

バンコックに住んでいた頃にエメラルド仏が安置されているワット・プラケオ寺院に行きました。バンコックの観光名所であり、行った方も多いと思います。このエメラルド仏は伝説の仏でビルマ(今のミャンマー)と戦争で何度も奪い合いをしたことは現地で有名でした。戦争は44回もあったと言われますが、概ねビルマの方が優勢だったようです。最後にタイがビルマに勝ったあとエメラルド仏は二度と取られないようにタイ北部のチェンライからバンコックにあるワット・アルン寺院に移され、その後、エメラルド仏を安置する為に、チャオプラヤー川の対岸にワット・プラケオ寺院が作られたと伝えられています。しかしこの仏の伝説これだけではなく、もっと古い伝説がありました。エメラルド仏はヒンドゥー教のインドラ神が作ったと言われインド東部にありましたが、その後、スリランカに移り、ビルマ・バガン王朝の王が持ち帰ろうとしたところ、船が流されカンボジアのアンコール・トムにたどり着いたということです。その後もタイ・アユタヤ、スコタイ王国のカムペーンペット、チェンライと運ばれ、内戦で行方のわからなくなり、たまたま落雷で破壊された仏塔から発見されると、チェンマイに運ばれるのです。その後、ビルマの攻撃から守る為にラオスのビエンチャンに移され、将軍ラマ1世が現在のバンコックに仏を持ち帰ります。そしてラマ1世自らが現在のチャクリ王朝を起こし、1784年バンコックにワット・プラケオを作りエメラルド仏の終の棲家としたのです。

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タイに興味のない方にとってはつまらない話でしょうが、エメラルド仏の伝説はインドで生まれた仏教がスリランカ、ビルマ、カンボジア、タイ、ラオスとこの地域一帯に広まっていったことを暗示しているように思えるのです。そしてベトナムだけはエメラルド仏の話が出てこないので、ベトナム仏教はインドからではなく、中国から伝わったのかなと想像させてくれます。ずっとエメラルド仏と言って来ましたが、実はエメラルド仏は本当はエメラルドではなく緑色の翡翠で出来ているのです。

ビルマは長い間、多民族の国で11世紀頃にチベット系のビルマ族が統一したと言われています。その後、再びいろいろな種族の争いがありますが、18世紀半ばに再統一され、一時はアユタヤも支配下に治めるほど繁栄します。力があったからこそ仏教の次に流行ったイスラム教は入って来なかったのかも知れません。ただし19世紀に入ると調子に乗り過ぎてインド・ベンガル地方の割譲を要求してイギリスと戦争を起こすのです。2度の戦争を経て、ビルマはその領土の半分を失うだけでなく、イギリスが送り込んだイスラム系インド人が金融、華僑が商業、キリスト教に改宗させた上でカレン族を軍事・警察担当としてビルマを統治し、ビルマ人は最下層の農奴とされてしまいます。このイギリスの施策が今でもミャンマーでカレン族などとの民族抗争につながっているのです。そして3度目のイギリスとの戦争に負けて1886年にビルマは消滅し、インドの1州として統合されてしまいます。第一次世界大戦のあと独立の気運が高まり、1937年にはインドから分離され英連邦内の自治領となります。1942年には日本軍が入って来るとスー・チーさんのお父さん、アウンサンは独立義勇軍を作り、日本軍と共同でイギリス軍を駆逐します。しかし日本の敗戦が濃厚となると今度はビルマ傀儡政権に対しクーデターを起こし、イギリス軍に寝返ります。戦後はまたイギリスの植民地となりますが結局1948年正式に独立し、ビルマ連邦共和国となるのです。

ビルマという国名は1989年に軍事政権によりミャンマーと変更され、首都ラングーンもヤンゴンに変更されました。軍事政権が何故名前を変えたのか、はっきりしませんが、もともと両方とも存在していてミャンマーやヤンゴンが文語体、ビルマやラングーンが口語体に近いようです。軍部は口語体で軽く呼ばれることが許せなかったのでしょうか。ただ、そもそもビルマと呼んでいるのは日本人だけでオランダ語のBirmaから来たものですが、通常はバーマ Burma と発音され、今でもアメリカの新聞の一部ではミャンマーを使用せずバーマを使用しています。

そのビルマ連邦共和国は社会主義が全盛だった60年代に社会主義者のネーウィンが独裁政権を作り、74年にはビルマ連邦社会主義共和国と名前を変えます。そして88年には共産圏の改革開放の流れの中で民主化が実現しますが、すぐさま軍部がクーデターを起こし、NLDを率いるアウンサンスーチー女史を自宅軟禁します。そして約束していた90年の選挙でNLDが大勝してもその選挙結果を無視して軍事政権を継続したのです。これに対し自由諸国は経済制裁を強化しますが、ミャンマー軍事政権は最貧国になろうと屈服しなかったのです。そうしているうちに中国がミャンマーにレーダー基地や軍港を作る見返りに軍事政権を助け、経済制裁は余り有効な手段とはなりませんでした。

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私がバンコックからミャンマーに出張したのはアウンサンスーチーが自宅軟禁されていた1994年のことでした。スー・チーさんの家の前も通りましたが、静かな通りで何も不穏なことはありませんでした。出張はミャンマーの現状把握が主な目的でした。日本政府はミャンマーに対してはずっと友好的で同国への経済支援は多分この時期の中国を除けば常に一番だったと思います。日本大使館も大世帯で大使館員の話を聞いても余り同国に批判的な感じはしませんでした。昔ビルマの竪琴という映画が流行り、中井貴一さんの水島上等兵を思い浮かべる人も多いと思いますが、私にとっては安井昌二さんの水島上等兵が今でも心に刻まれています。日本人には仏教国のこの国が社会主義国になっても愛され続けているように思います。私も実際に大蔵大臣や貿易大臣に会って見て、すぐに仲良くなりたい気分になりました。大臣はみなスカート姿でスリッパを履いていてかしこまらず、英語も堪能で通訳などいらずフレンドリーな会話が出来るのです。

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泊まったホテルの名前は忘れましたが、池のほとりにある一見素敵なリゾート風のホテルに見えました。ただし、お湯は出ないし、シャンプーはプラスチック製の小さな容器に入っていますが、泊まったホテルとは違う名前が書かれていて、明らかに使い回していることがわかります。さくらホテルという日系のホテルが開業したばかりで、食事はそこの日本食レストランで食べた記憶があります。そこで店の人から日本の女子大生が卒業旅行に軍事政権下のミャンマーまで来ているのを知り驚きました。女子大生恐るべしです。

当社の事務所には日本人の駐在員が一人いて独裁政権の時代からビルマを知っているらしく何があっても驚かない落ち着きというか風格がありました。時間が空くとボンボンベッドのような椅子でのんびりするのが好きなおじさんでした。

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街は軍事政権なので物々しい雰囲気かと思いましたが、割とのんびりした感じで軍人はところどころにいますが、威圧的な感じは全くありません。おっかなびっくりホテルの近くを一人で散歩して見ましたが全く危険を感じることもありませんでした。

それから数年して日本からミャンマーに出張する機会がありました。事務所長は若いバリバリのやり手に替わっていて、事務所もちゃんとしたオフィスビルに移り、所長車も立派な外車に替わっていました。ヤンゴンにはゴルフ場もあり、さすがイギリス植民地と思わせますが、メンテナンスには限界があり、芝はボロボロで、石もコロコロころがっていました。この頃は少しばかり経済開放の気分も盛り上がっていて、ミャンマー沖の天然ガスを狙って欧州企業もヤンゴン通いをしていました。さすがに米国企業だけは経済制裁が徹底していて顔を見せてはいません。それどころか、ミャンマーで営業活動をしている企業は経済制裁の対象でアメリカでの営業が出来なくなると世界中に脅しをかけていました。当社は当時、ミャンマーで胡麻の輸出や麻袋の製造などをやっていたのでヒヤヒヤものでした。結局天然ガス案件は中国に取られてしまいましたが、この時点でも不思議とミャンマーを敵視する気分にはなれませんでした。

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せっかくなのでミャンマー観光をと思い有名なシュエダゴン・パゴダに行って見ました。裸足になって石の床や長い長〜い階段を登りやっとのことで仏様の前にたどり着きます。寺院では子どもたちが竹籠に入れた小鳥を売っていました。こんなところでペットを売っているのかと一瞬思いましたが、もちろん違います。小鳥を買ったらすぐにそれを放鳥するのです。これが功徳を積むことになるのですね。仏教が本当に生活の一部となっている国だということを実感出来ました。

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ミャンマーはその後、軍内部でも保守派と改革派のせめぎ合いがあり、2010年には軍事政権が解散し、民主的な選挙により初めての文民政権が始まりました。アウンサンスーチー女史も開放され、彼女をリーダーとした改革が始まるものだと皆が新生ミャンマーに期待を寄せていました。でも皆さんご存知の通り、本年2月に再び軍事クーデターが起こり、ミャンマーでは今も悲惨な状況が続いているのです。

自分になにか出来るわけではありませんが、日本国政府なら出来るのです。今こそ、ミャンマーの軍事政権に対してはっきりとものを申して欲しいものです。




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