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海外の記憶 韓国

最近の韓国と日本の関係はいまだかつてなかったくらい冷え込んでいます。私は若い頃はどちらかと言うと韓国贔屓だったのですが、最近は呆れ果てて嫌韓になりつつあります。そもそもこれだけ関係がこじれてしまったのはムン・ジェイン大統領のせいだとは思いますが、その背景を考えると間違いなく韓国の反日教育に行き着きます。子供の頃から日本は悪い国、日本人は悪い人と言う反日教育を受けた若者が今、反日の先頭にたっています。私に言わせれば教育ではなく、洗脳だと思いますが、これが続く限り、パク・クネ前大統領も言っていたように日本がいくら謝ろうと1000年たっても許さないということになります。

反日意識の強い若者は特に知的水準の高い人に多いような気がします。既に経済成長した韓国に生まれ、日本憎しを刷り込まれた上に、明らかに間違ったり、捏造された歴史をしっかり勉強し、欧米に留学することで得た現在の倫理観・価値観を前提に昔の出来事を批判し続ける、そして出来れば1910年の韓国併合がなかったらいい、あってはならないことだ、不当行為なのでその全てを否定されるべきで、過去の行為と言えども現在の倫理観・価値観で裁くことこそ正義であり、絶対に正しいと思い込んでいるのです。彼らがムン・ジェイン大統領を生み、現在の日韓関係を作ったのです。

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110年前の韓国併合という過去の歴史は歴史として認めたとしても慰安婦問題や徴用工問題は戦前戦中の話でまだ75年か80年前の話だから歴史ではない、賠償は済んでいない、正式な謝罪はないと言う言葉がすぐに帰って来そうですが、日本からするとこれは国と国との問題で外交上、賠償も謝罪も終わっているのです。しかし、前政権のしたことを認めない韓国は何度でも話を蒸し返すのです。安倍・パク・クネ会談でこれ以上過去の問題を掘り返さないと約束したのにやはり前の大統領の約束などまるで無視されています。韓国の人から見れば、無視したのではない、韓国併合が不当行為なのでそれを利用して行った行為はすべて不当で、個人としての韓国人は日本政府に謝罪と賠償を求める権利は残っている、そして裁判をした結果、勝訴したのだというのでしょう。でもこの時代は残念ながら韓国人ではなく日本人だったのです。いくら不当でも韓国併合という歴史は変えられないのです。確かに日本軍がやったことは酷いことかも知れませんが、それは韓国人だけではなく、日本国民にとっても同じでした。いや慰安婦問題は韓国人だけだと言う反論も聞こえそうですが、米国の調査でも賃金は支払われているし、陸軍による軍人管理もされているのです。満州やサハリンでロシア兵が日本人女性にしたことや韓国兵がベトナム戦争でベトナム女性にやったことは、それより何倍も非道で野蛮でした。若い人たちは李氏朝鮮の時代からキーセン文化があったことを知らないわけではないと思いますが、敢えてこのことは無視をしているのです。

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1910年の韓国併合は歴史であり、残念ながらこの事実を地球から消すことは出来ませんが、そもそもどのような経緯でそうなったのかを知ることは意味があるし、日本の学校ではほとんど教えないので少し詳しく朝鮮の歴史に踏み込んでみたいと思います。

李氏朝鮮は室町時代から明治時代までの長きに亘り、朝鮮半島を支配していますが、だからといって江戸時代のような平和な時代が続いていた訳ではありません。李氏朝鮮はそれまで朝鮮を支配していた高麗の国教であった仏教を排除し、儒教を国教としました。中国の冊封体制のもとで科挙の制を導入し、当初は安定した政権を築きますが、取り巻き官僚一派と厳格な儒教といえる朱子学を重んじる士林派との間の争いが始まり、その後、優勢となった士林派の中でも数々の分派による争いが続きます。特に朱子学には妥協がない為、権力が変わるごとに前の権力者を粛清し、過去の歴史を改ざんし、自らの正当性を主張して来ました。

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明治維新の5年前1863年に若い高宗が即位すると頑なな攘夷論者である父親の大院君が実質的な支配者となります。彼の政府はフランス宣教師の虐殺や米艦ジェネラル・シャーマン号を焼き討ちし乗組員を全員虐殺するなど攘夷を実行します。フランスはすぐさま江華島を占拠しますが、朝鮮部隊により排除されます。しばらくして今度は米軍が江華島を占拠し、更に上陸し戦利品奪ったりしますが、それでも大院君は鎖国方針を曲げることはありませんでした。このあたりは明治維新の尊皇攘夷ととても似ています。実は水戸藩の水戸学も長州藩の陽明学もまた儒教の一つなのです。明治維新なった日本は朝鮮に新政府発足を通知し、国交を求めますが、これに対し朝鮮は江戸時代と外交文書の書式が違うことを理由に受け取りを拒否します。中国皇帝に仕える立場の朝鮮は日本の天皇とか詔勅という言葉を問題視したようです。大院君は日本が夷狄となった、禽獣と付き合ってはならないとして日本人と通じた者は死刑に処すと布告を出します。そして日本からの書状を何度も拒絶します。明治5年・1872年にはまだ国交がないまま、以前から朝鮮に拠点のあった対馬藩の駐在交代という形でやって来た日本の高官に対し、何故西洋の大礼服を着ているのかと咎め、拠点への食料供給を停止しました。儒教には衛正斥邪という極端な攘夷思想がありますが、この時点で日本は完全に西洋のまがい物として見られていた訳です。(わからなくもないですが)

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明治6年・1873年に高宗が成人すると妻の実家である閔一族により、宮廷クーデターが起こり、大院君を退けて高宗が親政を始めますが、実態は妻の閔妃及びその一族による支配でした。まだ国交交渉がまとまらずにいた明治8年・1875年に江華島付近で日本の軍艦が発砲されたことから銃撃戦となり日本軍は砲台を占拠するという、正に日朝開戦の危機とも言える事件が起こります。しかし全面戦争を恐れた閔妃政権側が折れる形で、翌年、日朝修好条規が締結されます。これは日米修好条約におけるアメリカの立場のように日本側が有利な片務条約でした。この条約締結に際し清国は反対しないどころか朝鮮を説得したと言われています。実は日本は既に明治4年・1871年に対等な日中修好条規を結んでいて、事前に清国への根回しが済んでいたのです。

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修好条規の締結後、閔妃政権は日本軍の助けにより軍隊の近代化など開化政策を推進しますが、宮廷クーデターの後も大院君は影響力を失っておらず、明治15年・1882年にとうとう大事件が起こります。不満分子であった旧軍兵士は給与の未払いを契機に閔妃一族や日本の軍事顧問、日本大使館員などを殺害し、王宮を占拠、再び大院君を担ぎ出しました。日本は軍艦4隻と兵1数百人を派遣しますが、清国はそれを上回る3000人の兵を派遣し、大院君を逮捕し、閔妃政権を復活させます。これを機会に清国・李鴻章は袁世凱を朝鮮に派遣し実質的に朝鮮を支配することになります。(壬午軍乱)

形の上では閔妃は政権を取り戻しますが、ある巫女を崇め宗教にのめり込み、閔妃一族も官僚の地位を金で売ったりして私腹を肥やし、国家としては財政的にも極めて厳しい状態となります。壬午軍乱から2年経ったころ急進開化派の独立党・金玉均らが甲申政変と言われるクーデターを起こします。
金玉均らは予め日本の公使に助けを求め、高宗ら王属の保護を依頼します。ところが本国の井上馨が協力を拒否したことから日本の助けは中途半端なものとなり、クーデターは失敗、清国軍に制圧される中で在留日本人も多数殺される事態となりました。甲申政変の後、清国と日本の間で天津条約が結ばれ、両国は朝鮮から軍を撤退させることになります。このころの日本の新聞は日本の公使の行動などは報道せず、清国が朝鮮に介入して日本人まで殺害したということを強調したことから清国憎しの雰囲気が作られて行きます。

話が長くなりましたが、整理すると朱子学に凝り固まった大院君が明治政府を拒否している内にクーデターで高宗・閔妃が政権を取るものの突発的な交戦の結果、日本と国交を結ばざるを得なくなり結果として日本を頼ります。しかし、大院君派がクーデターを起こすと閔妃が清に助けを求めた為、今度は清の支配が強まります。そして独立党のクーデターでは日清両国が張り合った結果、両国は共に撤兵し、朝鮮が裸同然になってしまった訳です。

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天津条約により両軍がいなくなると朝鮮はロシアに近づき不凍港をロシアに提供する代わりに朝鮮の保護を求めますが、これが清国の知るところとなりロシア側も依頼を断ったと表明して一件落着します。しかし1888年には露朝陸路通商条約を締結してロシアとの関係は強化されて行きます。国内では農民に対する重税に加え、両班(文班と武班という高級官僚・貴族)たちの賄賂の横行、不正収奪などで農民は疲弊し、ついに1894年東学党の乱と呼ばれる反乱を起こします。閔妃は清国に支援を求め、清国はそれに応じて出兵しますが、天津条約に基づき日本も出兵し清国の撤兵を主張します。しかし清国は属国の保護が目的であるとして日本の撤兵要求を拒否し両国のにらみ合いとなります。慌てた閔妃はすぐさま農民と妥協し、両軍の撤収を求めますが、もはや両軍は互いに譲ろうとしません。ここで日本は王宮を占拠し高宗を確保し、大院君を復権させて清国からの独立の意思を確認させると共に清軍の掃討を依頼させます。そしてついに日清戦争へと突入することになります。(第二次世界大戦での日本軍の振る舞いを知っている我々はどうしても侵略戦争というイメージを持ちますが、明治時代にはまだ朝鮮を中国から独立させるしか朝鮮の近代化の道はないと純粋に信じていた日本人も沢山いたようです。)

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日本はあっという間に朝鮮半島や遼東半島を制圧し、清国に勝利すると、朝鮮の独立を正式に認めさせると共に多額の賠償金に加え、台湾や遼東半島を手に入れます。そして日本主導で金弘集内閣を発足させます。本来なら日本で福沢諭吉や大隈重信、渋沢栄一などと知己のある独立党の金玉均を首相にすべきでしたが、日清戦争の直前に閔妃によって既に暗殺されていた為、独立党は弱体化していてやむを得ず金弘集を起用したわけです。

日清戦争で日本が勝つとは思っていなかった列強は初めて日本を脅威と見て干渉を始めます。特にロシアとフランスは北と南から中国への進出を狙っていて、新たに利権を狙うドイツと共に三国干渉に出ます。ここで清国を実質支配していたイギリスも動き始めます。イギリスはドイツの山東半島・青島への進出を認め、ロシアの南下への歯止めとする一方、フランスとは雲南省や四川省を緩衝地帯として開放し手打ちをします。しかしロシアは三国干渉で返還させた遼寧半島の大連や旅順を勝手に租借すると共に、義和団の乱に乗じて満州一帯を支配します。この頃、南アでのボーア戦争に手一杯だったイギリスは他国と同盟を結ばない原則を破り、1902年、日本との間で初めて日英同盟を締結することでロシアを牽制します。

一方、朝鮮国内では三国干渉で日本の影響力が落ちた時期を見計らって政権から排除されていた閔妃はロシア公使に頼りロシア軍の力を借りてクーデターを起こし政権を取り返します。そしてロシアに協力し、日本が軍事顧問をしていた訓練隊を解散させようとしますが、逆に閔妃自身が暗殺されることになります。暗殺については三浦公使説、大院君首謀説、朝鮮軍部説など諸説あり、公式には三浦公使は軍法会議にかけられるも証拠不十分で不起訴、朝鮮国内では暗殺現場にいたと言われる高宗が朝鮮軍人6名を主犯として処刑しています。(この辺りでは日本がもはや閔妃を信用できないとして抹殺した可能性は十分あると思います。)

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閔妃亡きあと今度は皮肉にも大院君を執政として第4次金内閣が組閣され、太陽暦の導入や断髪令などの改革が実行されて行きます。しかし、これらの改革に反発する両班や儒教学者が今度は親ロシア派と共にクーデターを起こし、高宗とその子供をロシア公使館に移し、金首相を暗殺して新政権を樹立します。(もはや儒教学者も衛正斥邪の攘夷思想などは忘れてしまったのでしょうか?)そして1897年に高宗は大韓帝国の成立を宣布します。中国との冊封関係の象徴だった迎恩門が倒され、跡地に建てられた独立門は中国からの完全な独立を象徴するものでした。この時、明国に命名された朝鮮という名前も捨てて高麗以前の三韓時代から名前を取り大韓帝国としたのです。

その後もロシアの南下政策は続き、とうとう韓国北部の都市にロシアの租借地が出来ることになり日本の危機感は益々強まります。日英同盟を締結したあとも南下防止の為、ロシアとの交渉を続けていましたが、最終的には世論に押される形で日露戦争に突入することになります。日本優勢な状況下、アメリカの仲介によりポーツマス条約が締結され、アメリカ並びにロシアが同意する形で日本の遼寧半島の租借、満州の部分的鉄道利権取得、及び朝鮮の監督権が認められました。イギリスは同じ年に結ばれた第二次日英同盟で正式に朝鮮を日本の保護国とすることを認めていて、欧米諸国の了解のもとで初代韓国総監に伊藤博文が任命されます。(欧米はロシアや中国よりは日本の方がまだましだと思ったのでしょう。アメリカは韓国の日本保護国化を認める見返りにフィリピンを保護国にしています。正に先進国の横暴です。)

朝鮮が不幸だったのは大院君が頑固な朱子学派だったこと、閔妃一族が中華系で国に対する信念がなかったこと、高宗が優柔不断で頼りなかったことなど、近代化にとって重要なこの時期に優秀なリーダーがいなかったことです。高宗は韓国が保護国となったあとも国際世論やマスコミに対し日本の不当を訴えますが不首尾に終わり、逆に退位を迫られることとなります。日本には韓国に同情的な人もいましたが、1909年の伊藤博文暗殺により韓国併合に反対する人はいなくなり、韓国併合へと進んで行くことになります。伊藤博文暗殺は当時ロシア帝国の都市だったハルピンで起こった為、ロシアは事件への関与を否定すべく韓国との関係を断絶し日本との協調路線に切り替え、もはや韓国併合に異を唱える国はいなくなってしまいました。韓国併合条約はすでに親日派で占められていた韓国との間で形式的に行われたもので、日韓の間では戦争など一切ないまま、古い歴史を持つ韓国が日本に併合されるという事態になったわけです。

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近代化が必要だったこの時期に日本と韓国のその後の歴史が大きく変えた分かれ目はいったい何だったのでしょうか。反日教育を見るにつけ教育の重要性には関心を持たざるを得ません。日本には読み書きそろばんの寺子屋と蘭学塾があったのに対し朝鮮では朱子学一本、それも支配階級のみで独占し中身も頑強なものでした。李氏朝鮮4代王の世宗が作ったと言われるハングル文字でさえ、事大主義の保守派からは漢字以外の文字を持つことは夷狄がやることだと否定されているのです。

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日韓併合により教育令が発布され、ハングル語の勉強が必須科目となり、1910年に識字率が6%であった韓国は1943年には22%まで上昇しています。今でも誤解がありますが、戦前に韓国人がみんな日本語を喋れた訳ではなく、終戦時でもその割合は2割程度で8割の人は日本語を話せませんでした。また朝鮮語の新聞・雑誌も言論統制の中で廃刊となったものはありますが、それは日本の新聞・雑誌でも同じでした。そして終戦まで発行し続けた朝鮮語新聞もあるのです。こうした客観的事実に対して反日教育では、日本人が韓国人の民族の誇りである朝鮮語を禁止し、全員に日本語を強制したと誇張されるのです。もちろん日本語の学習を導入したのは事実ですが、朝鮮語を取り上げたことなど一度もないのです。このように日本憎しの中で微妙に事実関係を歪めている例は他にも沢山あると思います。
一方、日本の寺子屋は侍の子息以外にも開放されていました。長崎出島から入って来る蘭学も明治維新の100年も前から塾が始まり外国からの医学・文化が密かに国内にも行き渡り、海外事情もある程度は理解されていました。その為、陽明学や朱子学を学んだ憂国の志士たちも柔軟に対応を変え明治維新を達成出来たのです。朱子学の影響度の違いや教育環境の違いが両国の歴史を分けたのかも知れません。現代の日韓両国を見ればわかる通り、もともと日本人と韓国人に能力の差など一切ないのですから。

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韓国併合で多くの韓国人が日本に連れて行かれたという話は日本でも定着していますが、実際はほとんどが密航による日本移住で、高賃金をうたって密航させた業者も多かったようです。その多さに日本政府が取り締まりを強化せざるをえないほどでした。本来、徴用工問題の対象者は国民徴用令で日本に来た1944年9月から翌年3月の間に来た人だけのはずなのに自分で密航して来た人まで徴用工だと主張しているのです。また韓国人の兵役についても志願兵の募集で1938年から1943年の6年間に17、664名が採用されましたが、応募したのはなんと80万人近くにのぼっていて45倍の高倍率で兵役は大人気だったのです。民間の日本での仕事も同じくらい人気があったことは容易に推測できます。徴用令と同時期の1944年9月から韓国人への徴兵も始まりましたが、訓練期間中に終戦を迎えたので徴兵された韓国人で戦死者は出なかったのです。つまり強制されて戦死した韓国人はゼロということなのです。靖国神社に祀られている韓国軍人は日本の為に志願して戦ってくれた立派な兵士なのです。もちろんキリスト教なので靖国神社に強制的に祀られたいるのはけしからんという批判はわかります。でも残念ながら、仏教徒やキリスト教信者の日本人も同じ扱いを受けています。困ったことに神道の狂信者はかつての韓国の朱子学・儒学者とよく似た人たちなのです。

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私が韓国に行ったのは2007年と2008年の2回だけで、それまでは不思議と韓国とは縁がありませんでした。街はハングル語の看板がなければ日本にいるのかと思うほど似ていました。

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皆さんの方が韓国をよく知っておられると思いますが、私が驚いたのは韓国の人が朝から焼き肉を食べるということでした。朝昼晩お肉でも大丈夫らしいのです。現地の方の冗談かと思いましたが、実際に朝お店に行くとしっかりお肉を食べている人がたくさんいました。

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仕事の面でも丁寧ですが、自信たっぷりで前向きです。徴兵制のせいなのか、お肉のせいなのか分かりませんが、英語でもガンガン喋りまくります。でも食堂のおばさんも元気なので徴兵制とは関係ないのかも知れません。ニューヨークでは韓国人のショップオーナーが泥棒相手に果敢に戦いを挑む姿もニュースでよく見ましたが、なぜ、こんなに元気な人達が戦いもせずに韓国併合に応じたのか本当に不思議だと思います。

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不思議と言えば韓国で建国の英雄みたいな人の話は聞いたことがありません。英雄といえば近代なら伊藤博文を暗殺した安重根、歴史的には豊臣軍を追い払った李舜臣でしょうか。いずれにしても日本に一矢報いただけの人です。建国の始祖で言えば李氏朝鮮なら李成桂、大韓帝国なら高宗、大韓民国なら李承晩なのでしょうが、どうもピンと来ません。時代劇なら李氏朝鮮時代の世宗とか正祖とかが人気らしいのですが、英雄かというとよくわかりません。では誇り高き朝鮮民族の原点とはなんなのでしょうか。実はよく知られた英雄が一人います。あの北朝鮮の金日成です。ひょっとしたら韓国の人も北朝鮮の建国の父、金日成を密かに尊敬していて、彼こそが実は朝鮮民族の誇りなのかも知れないのです。

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金日成は1912年平壌生まれですが、若くして満州で朝鮮人独立運動団体の運営する塾に通い、吉林省の中学では共産主義運動に参加して退学になっています。その後も南満州の抗日武装団に参加するなど活動を続け、20歳で中国共産党に入党しました。 中国共産党が主導する東北抗日聯軍で第六師長まで出世し、国境を超えて朝鮮領内を襲撃したことで日本軍にもその名を知られることになります。しかし日本軍の討伐により不利な情勢になると1940年にソ連に潜入し逮捕されるもその後ソ連の旅団に参加し、大隊長に抜擢されます。1945年8月のソ連侵攻で朝鮮は開放され、金日成は久しぶりの帰国を果たします。そしてソ連の後押しで出来た北朝鮮人民委員会の委員長、1948年には朝鮮民主主義人民共和国の首相になりますが、朝鮮内では満州派は弱小勢力であり、その後も権力の掌握の為、粛清を繰り返すことになります。

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金日成の一生はまさに抗日運動を実践し、ソ連軍と共に日本軍に打ち勝ち朝鮮民族の誇りを取り戻した英雄だということになります。韓国の中にも駐留米軍に対し反感を持つ人達もいて、盧泰愚氏や金大中氏など北朝鮮寄りの人が大統領になったりする訳です。そして今や北朝鮮の手先とも言われるムン・ジェイン氏が大統領となる時代がやって来たのです。最近の大統領支持率を見る限り韓国の人たちもこれでは不味いと思い始めているようなので、せめて親日というだけで叩かれ、人非人のような扱いを受けることのない国になって欲しいと願っています。

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