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海外の記憶 香港

私が始めて香港に行ったのは1992年にバンコックへ転勤になってからだったと思います。バンコックからは何度も行きましたが、いつも仕事で会食と夜想会しか行かなかったからでしょうか、覚えていることと言えば着陸の度にひやひやするカイタック(啓徳)空港くらいです。海の上に着陸するかのように香港の街に近づき、ビルの合間を割って入るといきなりランディングとなります。何度降りてもヒヤヒヤする空港でした。この危ない空港に代わる新香港国際空港の建設が計画されたのはちょうど1992年のことで香港返還に合わせて1997年7月に完成を目指していました。実際は1年遅れの1998年7月に開港となりましたが、それでもこの危険な啓徳空港はようやく閉鎖され、今はフェリーの港として利用されているようです。

その香港返還の話ですが、そもそも香港島と九龍半島の南端は中国がアヘン戦争で負けた時に割譲されたもので、期限はなく、イギリスに返還義務はなかったのです。しかし割譲後50年くらいたった頃に新界という香港島を取り囲むような緩衝地帯を対象に99年間の租借契約をしたことが、香港返還問題をクローズアップさせる原因となりました。。新界は英領香港の10倍くらい大きい地域で香港に近いところから徐々に開発が始まっていたのですが、租借という不安定な状況が本格的な開発を拒んで来ました。そこで1997年の契約期限を前に早めの契約更新交渉が始まったのですが、鄧小平は契約更新など頭の隅にもなく、租借契約とは無関係の香港島や九龍半島南端を含む全ての返還を要求し、返還しなければ武力行使や給水の停止を実行するとサッチャー首相に迫ったのでした。最終的にサッチャー首相が折れる形で1997年7月に香港関連資産全ての返還と2047年まで香港では社会主義を実施しないという取り決めが1984年の共同声明で発表されました。

80年代と言えばアルゼンチン沖にある英領フォークランド島で紛争があった時期でサッチャー首相はイギリス海軍を送り、フォークランドの領土を守った頃のことです。その鉄の女サッチャー首相をも屈服させた鄧小平はまさにしたたかな政治家であり、中国人の領土に対する強い思い入れが感じられます。

私が出張していた時はほとんど上の写真にあるフラマホテルに泊まっていました。セントラル地区にあり、仕事にも都合が良かったのです。そういえば香港のセントラル地域はビルとビルが繋がっていることが多く、地面を歩かず歩道橋のような道をビルからビルへ移動していたことを思い出しました。そこにお店も並んでいたりして、とても便利でした。

サッチャー首相は鄧小平に押し切られましたが、イギリスもしたたかなもので、新香港国際空港のみならず空港予定地のあるランタウ島と香港をつなぐ青馬大橋の建設も計画していて、これらの建設契約の全てをイギリスの会社に受注させることにしました。その結果、香港返還時には香港の財布は空になるとまで言われたものでした。

実はイギリス側だけではなく、中国側も巧妙な仕掛けを作っていたのです。新界の外側に深センという田舎町があったのですが、1980年にここを経済特区に指定し外資を誘致し工業化を進めます。1990年には深セン証券取引所を作り外資が中国株を買えるようにするのです。まさに香港の近くに大きな香港を作ろうとしたのです。深センには塩田港という港湾もあり、今では中国4大都市の一つとしてファーウェイやテンセントなど名だたる中国ハイテク企業が本社を置くほどの最先端都市になっているのです。香港返還が出来なかった際の代替地として、また返還された場合はその拡大成長の場所として、しっかり手を打っていたのです。下の写真は私は行ったことがない深センの姿です。

香港返還後の出張で、私が感じたことは英語を喋れないタクシー運転手が増えたことでした。本土から中国人がどんどん入って来たのです。人民の移動は原則禁止されていましたが止められるはずもありません。84年に返還が決まった時、私はメルボルン駐在でしたが、香港人がどっと豪州に移民して来たことを覚えています。豪州だけではなく、移民に優しいカナダ・バンクーバーには豪州以上に香港移民が増え、この頃からホンクーバーという言葉が出来上がりました。ただ、中国の改革開放政策が進んでいたころなので一部の香港人は移民のステータスを確保しながら、香港に戻って仕事をする人も多くいました。その幻想が打ち破られたのが、1989年の天安門事件でした。

私は中国が50年も約束を守るとは思っていませんでしたが、今の香港の状況を見ているとやはり残念でなりません。

3000年の歴史を持つ中国と19世紀に世界を制覇した大英帝国はともに昔の栄華を忘れられない老大国ですが、19世紀には圧倒的にイギリスの力が強く、インド植民地で大量に生産したアヘンを中国に売りつけて大儲けをしていたのです。アヘンを止めようとした中国に戦争を仕掛けるイギリスとはなんと酷い国だったのでしょうか。挙げ句に香港を自分の領土にして、香港上海銀行や商社のジャーディン・マセソンなどを使ってアジア市場を支配していた訳です。サッチャー首相以降、斜陽大国イギリスは一定の復活を遂げますが、EUを離れたイギリスの今後には不安しか見えません。一方、自由社会の工場として力をつけた中国は今後も益々発展し、いずれは台湾だけではなく、尖閣諸島まで手に入れようとするのは間違いありません。

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