見出し画像

海外の記憶 北京

初めて北京に行ったのは1989年4月の後半でした。契約の調印式に出席する幹部の鞄持ちという立場で緊張の連続だったことを覚えています。あの天安門事件がその年の6月4日ですが、もちろんその時点ではあんなことが起こるとは知るよしもありません。ただ、予兆はいろいろなところにありました。車の窓から見るだけでも、共産国らしくない騒然とした雰囲気が漂っていました。町の至るところで人が集まり、学生たちの意見に耳を傾けていました。そして建物の壁には手製の新聞が何枚も貼られています。ある意味、革命前夜といった雰囲気かも知れません。

1986年に昆明の肥料公司に行ったときの田舎の風景や上海の落ち着いて静かな雰囲気とは全くと言っていいほど違っていました。街頭演説に拍手が起こりますが、警官が取り締まることもありません。この直前の4月15日に亡くなった民主化推進派の胡耀邦前総書記の追悼集会的なことも影響したかも知れません。また後任の趙紫陽総書記が穏健路線をとっていたこともあり、当局が明確に取り締まることはしなかったのです。我々の調印式は人民大会堂で25日に行われその日のうちに帰国したのですが、実はその翌日26日に人民日報が学生の動乱に反対すると政府の態度を明確にしたのです。裏で保守派の李鵬首相や長老の鄧小平が動いていたことは明らかでした。また上海の週刊誌が保守派による胡耀邦解任を不当とした記事を出そうとしていたところを、差し止めた上海市長の江沢民はそれが評価され、この後、総書記に大抜擢されます。

これらの一連の流れにはもちろん伏線があります。1985年にソビエト連邦の書記長になったゴルバチョフがペレストロイカという民主化運動を進め1987年の革命70周年パレードでは情報公開・グラスノスチと共に明確な政府方針として推進して行くのです。これに呼応するように胡耀邦総書記は言論の自由、政治改革を主張したのですが、鄧小平らの保守派によって実質的に解任されていました。

それまでの鄧小平は改革開放派として知られ、白い猫でも黒い猫でもネズミを取る猫がいい猫だと言って過去の自力更生路線から資本主義経済を取り入れることで成長の兆しを見せていました。しかし85歳だった鄧小平は最早改革派ではなく守旧派そのものになっていたのでした。天安門事件が起こると直前に契約したあの巨額ファイナンスは大丈夫なのかと社内的には大騒ぎになったものでした。自由諸国はしばらく警戒感を強めましたが、徐々にこの事件も忘れられ中国経済はもとに戻り、おかげで債権も無事回収出来ると言うやや皮肉な結果となりました。そういえばバンコックにいたころ、95年前後ですが、タイ財閥CPグループの謝国民が中国の養鶏事業で大儲けをしたことを聞きました。人が行かない時こそ歓迎してもらえると同氏は新聞で話していましたが、天安門事件以降は外資の進出が止まる中で勇気のある華僑が優遇され、中国を助けた一面は間違いなくあると思います。

その後中国は天安門事件そのものを隠蔽し国民に知らせずにここまで来ましたが、自由主義国側も資本主義を取り入れた中国はいずれ国民が豊かになり、社会そのものが変わるものだと高をくくっていました。いやそれ以上に中国の低賃金を利用し、また中国を大市場と捉え積極的に中国との取引を拡大させて来ました。でもコネを使った歪んだ資本主義は貧富の格差拡大には貢献しましたが、政治的には一党独裁や思想管理・情報管理強化の方向に進み、今や世界の指導者にでもなったかのような振る舞いをしています。

1989年の北京は王府地区の古い建物を取り壊している真っ最中で、当時の王府は今では考えられないくらい古臭い街角でした。そのあと20年くらいの間、中国の街は急激に姿を変えて行くので数年行かないと全く違う都市になっていると言われたものでした。経済的にインフラ事業は不況時には下支えになりますが、ビル建設や工場建設など民間事業は普通控えるものです。でも中国人の考え方の根本にあるのは安い時に作っておく、需要は必ず後からついてくるという信念です。10数億の人民がいるからこその発想かも知れません。90年代前半に白物家電の工場を作っていた企業は倉庫があふれるばかりでも、まだ多くの人は洗濯機や冷蔵庫を持っていないので値段を下げれば売れるし、下げなくてもそのうち買えるようになると全く心配する様子はありませんでした。

2007年に行った時の北京は新しい大きなホテルが欧米企業の運営でどんどん開業していました。ホテルのマネージャーは欧米流の知識を持ち、接待も大変に上手で、日本のおもてなしとは一線を画した合理的なサービス精神をマスターしていました。そういえば1989年当時のホテルではマネージャーこそ英語が出来るフィリピン人がいて、中国人スタッフを叱咤激励していましたが、服務員体質のとれない中国人スタッフの愛想のなさは今では考えられないくらいでした。(注)服務員とは国営企業のサービス担当者です。中華民航の室内乗務員もこう呼ばれていて、なんでこんなに不愉快そうな顔をしているのかと不思議に思ったものでした。

市民の足となる地下鉄も整備され昔は当たり前だった自転車の大波はもう見られなくなっていました。

北京にある清華大学は北京大学に次いで有名な大学で日本からの留学生も多い大学ですが、特に工学系が優れています。1996年からボストンのMITと提携をしていますが、今やMITを抜いて、世界一の工学系大学にランキングされています。ちなみに習近平さんもこの清華大学の出身です。

天安門事件は現在の中国につながるターニングポイントでしたが、当時中央軍事委員会主席だった鄧小平にはこれ以外の選択肢はなかったのかも知れません。当時、私も中国人の個人主義や国民党政府の腐敗の歴史を見ていると中国は共産主義の鎖がついていた方が世界の為かも知れないと思ったこともありました。

歴史に「もし」はありませんが、天安門事件がなかったら今の中国はどうなっていたのか、と考えると興味深いものがあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?