見出し画像

海外の記憶 インドネシア

インドネシアは何故インドネシアと呼ばれるのでしょうか。インドネシアにはもともと数多くの王国があり、それぞれに王国名がありました。17世紀以降オランダ東インド会社が支配していた時でも全体をインドネシアとは呼ばず、ジャカルタ地域をオランダの古称であるバタヴィアと呼んでいました。第一次世界大戦が終わると民族運動の流れの中で1928年にインドネシア青年会議が開かれ、オランダ領東インドに住む民族をインドネシア人と呼ぼう、統一言語インドネシア語を使おうとして民族独立の意思を表明したことからインドネシアは始まったのです。標準語とされたインドネシア語はマラッカ海峡にあるスマトラ島のリアウ州で使われていたマレー語をベースとしているので、実はマレー語とよく似ているのです。インドネシアのネシアはギリシャ語で諸島を意味する言葉なので13000以上も島があるインドネシアは正に東インドのネシアでした。それまでオランダはインドネシアが統一・団結することを警戒して島ごとにある方言を残すように強制して統一言語を作らせなかったのです。余談ですが、インドネシアに工場を作った日本企業の中にはマレーシア工場で経験を積んだマレーシア人を管理職としてインドネシア工場に転勤させている会社もありました。言葉が通じ易いこともその理由だと思います。

インドネシアは昔からインド文化の影響が大きく、紀元前からインド商人がヒンドゥー教を広め、5世紀になると仏教が入って来てスマトラ島やジャワ島西部まで大乗仏教の国となります。上の写真がヒンドゥー教のプランバナン寺院で下が仏教のボロブドゥール寺院です。石の文化のせいなのか、なんとなく似ています。ちなみにカンボジアのアンコール・ワットはもともとヒンドゥー教寺院だったものが仏教寺院としても使われていたのです。いずれにしても中国経由でやってきた日本の寺院とインドから直接やって来た仏教寺院はだいぶ建物の形が違います。タイやミャンマーもこちらに近いですね。この尖った塔は卒塔婆なのです。

ガルーダというインド神話に出てくる鳥がいてインドネシアの航空会社の名前にもなっていますが、インドネシアではあちこちにガルーダが見られます。そして今でもインドネシアの民族舞踊はヒンドゥー独特の影響が多く残っています。

考えて見ると私が住んでいたタイの国章もガルーダでした。(上の写真)また民族舞踊もヒンドゥーの影響をそのまま残しています。実はインドからインドシナ、インドネシアはその昔はほとんど同じ文化だったのです。仏教の後はイスラム教が同じくインド商人経由で入って来て、最終的にはバリ島など一部を除きほぼイスラム教となります。つまりインドにムガール帝国が出来た16世紀ごろからはアフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュ(ここまで大インド)マレーシア、インドネシアは全てイスラム圏だったのです。そして文化的にはイスラム化しなかったタイ、ミャンマーを含めて、比較的宗教色が弱い神話的なヒンドゥー文化がイスラム化の中でも仏教国の間でも土着文化としてしっかり生き残り、今でもアジア各地に続いているのです。

上の写真がインドネシアの踊りで下の写真がタイの踊りです。よく似ていますね。私は神に捧げる雅楽で使われるお面などにもヒンドゥーの影響を感じています。それがインド南部のドラヴィダ人が日本にもやって来たと信じる理由の一つでもあります。

雅楽は平安時代に完成したと言われていますが、古くは林邑系と呼ばれるベトナム中部のチャンパ王国から来た舞踊もあったそうでベトナムにもヒンドゥーの影響は間違いなくあって、それが日本にも渡って来たのです。

インドネシアには室町時代末期には御朱印船が訪れていますが、当時はまだバタヴィアではなく、現地後のジャガタラと呼ばれていました。ここでオランダ人が日本に持ち込んだのがジャガタライモつまりじゃがいもなのです。南米インカが発祥と言われるじゃがいもは16世紀ごろにヨーロッパにもたらされたと言いますが、ほぼ同時期に日本にも来ていたことになります。飢饉に強い食べ物として重宝され、江戸末期には北海道に移植され、今ではじゃがいもと言えば北海道になったのですね。中国では馬鈴薯と書きますが馬齢はマレーのことではないかという説もあるそうです。

第二次世界大戦で日本は真っ先にオランダ領インドネシアに進出し、石油施設を占拠しましたが、これはアメリカからの石油禁輸措置に対抗し石油を手に入れる唯一の手段だったからです。また終戦の2日後の8月17日にはスカルノ大統領がオランダからの独立を宣言し、旧日本軍人も多数、独立戦争に参加しています。スカルノ大統領は戦後、西欧諸国と一線を画しましたが、日本とだけは良好な関係を保ち、賠償協定を成立させて日本からの経済援助を取り付けました。またデビ夫人を大統領夫人とするなどいろいろと話題も提供もしています。

私が足繁く出張した80年代後半は既にスカルノ大統領は亡くなっていてスハルト大統領の開発独裁が徹底されていた時代です。インドネシアでは全てがトップダウンで決まるのですが、お金はトップが全てを独占せず、上から下へと少しずつ流れることである程度のガス抜きが行われ、体制崩壊が起こらないように仕組まれていました。前任者のスカルノが戦後、外国資産没収など強行手段を用いたり、開発途上国のリーダーとして反帝国主義を掲げ、1965年にはマレーシアの非常任理事国に反対し国連を脱退した後、中国共産党との関係を深めるなど西側諸国としては扱いにくい存在でしたが、スカルノ大統領を倒したスハルト大統領は西側諸国との関係修復に尽力し、円借款だけでなく、IMFや世界銀行の支援による開発独裁で工業化を進めていました。

若干話がそれますが、なぜスカルノ大統領がマレーシアの非常任理事国にそんなに反発したかと言うとその2年前にマレーシアが独立する際にボルネオ島北部にあるサバ州とサラワク州をマレーシア連邦に譲渡したことにあります。この北ボルネオは非常に特異な地域で、19世紀にブルネイ王国(ボルネオの語源)の王が住民の反乱鎮圧をイギリス人ジェームス・ブルックに頼み、その恩賞として今のサラワク州を領地として与え、東南アジアで初めての白人王国が誕生し、それが3代続いたのです。日本の占領時に白人王はオーストラリアに脱出し、戦後もサラワクには戻らなかった為、イギリスはサラワク州をサバ州に管理させます。そしてマレーシア連邦の形成の際には両州のスルタンを連邦に参加させるのです。一方、両州に挟まれたブルネイ王国は重要な石油施設があった為、マレーシア連邦には譲渡されず、1984年のブルネイ独立までイギリスが支配を続けます。これらのイギリスのご都合主義に対しスカルノ大統領は新植民地主義として批判したのです。

インドネシアではスカルノとかスハルトとか言いますが、これはファーストネームであってファミリーネーム(姓)ではないのです。ミャンマーやカンボジア、モンゴルでも元々ファーストネームだけで姓はないのですが、最近は国際的な場面も増え、不便なのでデビ・スカルノのように亭主の名やお父さんの名を名字にしたりするようになりました。ちなみにスカルノなど「ス」から始まる名前の人はジャワ出身の人が多いと聞きましたが真偽のほどはわかりません。

私が関わっていたのは、インドネシアの公的債務にならない形でのプロジェクトファイナンスでした。IMF国際通貨基金は融資の前提としてコンディショナリティーという厳しい条件をつけます。そのため、公的債務を増やすことには制限があります。また世界銀行は大統領のファミリービジネスに対して厳しい監視をしていて中々新しいビジネスが出来なくなっていました。ファミリービジネスとは大統領のファミリーが所有する会社が契約を取り、ピンはねをした上で仕事を丸投げするというビジネスで、どこかの国の経産省がやっているようなことを当時インドネシアではいたる所でやっていたのです。大きな契約になると途中の段階でファミリー企業が入り見えにくい形になっていました。そんな中で我々は10年分の石油製品の代金を前渡しすることで新しいプラントを建設するという提案をしたのでした。工場が完成して出荷されれば、商品代金の一部は前渡金から引き落とされ、残りの代金が原料代などに充当されるわけです。

彼らは国営企業のエリート職員ですが、必ずしも海外留学をしている訳ではないので英語はカタコトか全く出来ないことも多く、ただ座っているだけで、彼らが雇ったアメリカ人弁護士が交渉の窓口になることが多いのです。これは契約の塊で成り立っているプロジェクトファイナンスの世界では大変助かりました。いわゆるロジックで交渉を進められるからです。

当時、建設予定地だったチラチャップというジャワ島中部の海岸沿いの街に見学に行ったことがありました。ホテルなどなく公団が所有しているゲストハウスというところに泊めてもらいました。部屋の大きさはそこそこですが、天井にはヤモリが数匹常に張り付いていました。水のシャワーで汗を流し、ヤモリが寝ている間に口の中に落ちて来ませんようにと祈りながら眠ったことを今でも覚えています。

インドネシアには金持ちの華僑がたくさんいます。しかし、彼らは余り表に出ることはありませんでした。インドネシア名を語り、顔写真なども新聞に出ることは少なかったのです。もちろんタイの華僑でもタイ風の名前を使っていて、現地で目立たないようにすることは華僑共通のことかも知れませんが、インドネシアではオランダ植民地の時代に華僑がオランダ人の手先になって稼いでいたという過去がある為、華僑に対する反感は他の国よりも強いのです。スカルノ大統領も華僑に厳しく当たったこともあり、華僑は表に出ないで動くことが多かったのです。しかし、80年代には華僑がしっかりと経済を牛耳っていて、きっと今も変わらないのだと思います。

私が子供の頃、怪傑ハリマオというテレビドラマがはやっていて、マレーの虎・ハリマオがジャワ島にいる悪い白人と悪徳中国商人をやっつけるのです。あの頃はジャワ島が何処かも知らず、ジャングルでのハリマオの活躍を単純に喜んでいました。日本人はジャワが好きなようで、ハウスのジャワカレーという現地では聞いたこともないカレーが今でも人気です。大体インドネシアではナシゴレンとかミーゴレン、サテーなどの有名な料理以外は揚げ物に白飯、ココナツミルクかピーナッツミルクの味しか記憶がなくてカレー自体あるのかどうかも知りません。若い人たちにとってはインドネシアと言えばバリ島の美しさなのかも知れませんが、いずれにしても民主化を実現したインドネシアが良い方向に向かっていることを願うばかりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?