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海外の記憶 アジア

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海外の記憶 韓国

海外の記憶 韓国

最近の韓国と日本の関係はいまだかつてなかったくらい冷え込んでいます。私は若い頃はどちらかと言うと韓国贔屓だったのですが、最近は呆れ果てて嫌韓になりつつあります。そもそもこれだけ関係がこじれてしまったのはムン・ジェイン大統領のせいだとは思いますが、その背景を考えると間違いなく韓国の反日教育に行き着きます。子供の頃から日本は悪い国、日本人は悪い人と言う反日教育を受けた若者が今、反日の先頭にたっています

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海外の記憶 ミャンマー

海外の記憶 ミャンマー

バンコックに住んでいた頃にエメラルド仏が安置されているワット・プラケオ寺院に行きました。バンコックの観光名所であり、行った方も多いと思います。このエメラルド仏は伝説の仏でビルマ(今のミャンマー)と戦争で何度も奪い合いをしたことは現地で有名でした。戦争は44回もあったと言われますが、概ねビルマの方が優勢だったようです。最後にタイがビルマに勝ったあとエメラルド仏は二度と取られないようにタイ北部のチェン

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海外の記憶 ベトナム

海外の記憶 ベトナム

私より少し上の年代はベトナム戦争の時代に反米やベトナムに平和を!と叫んだ人たちが多く、高校生だった私の年代でも意識の高い高校生は政治活動に関心を持ち、学生デモに参加するものもいました。私は行動は取らなかったけれど、いわゆるシンパでした。しかし、目指していた東大入試が中止になると私の過激派に対する見方は変ってしまいました。東大を出て外交官になり世界の人たちと会うという私の描いていた将来像がつぶされた

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海外の記憶 インドネシア

海外の記憶 インドネシア

インドネシアは何故インドネシアと呼ばれるのでしょうか。インドネシアにはもともと数多くの王国があり、それぞれに王国名がありました。17世紀以降オランダ東インド会社が支配していた時でも全体をインドネシアとは呼ばず、ジャカルタ地域をオランダの古称であるバタヴィアと呼んでいました。第一次世界大戦が終わると民族運動の流れの中で1928年にインドネシア青年会議が開かれ、オランダ領東インドに住む民族をインドネシ

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海外の記憶 マレーシア

海外の記憶 マレーシア

私がマレーシアと初めて関わったのはマレーシアのサバ・サラワク州から輸入していた南洋材の伝票処理をしていた新入社員の頃でした。当時はコタキナバルに現地事務所があり日本人駐在員もいました。昭和48年に入社した私は木材が仕入れ価格の2倍以上で売れているのを事務処理しながら、商社とはなんとアコギな商売をしているものだと驚いたものでした。お客との接待麻雀では、たとえお客が負けても負け以上の残念賞がついて来る

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海外の記憶   香港

海外の記憶 香港

私が始めて香港に行ったのは1992年にバンコックへ転勤になってからだったと思います。バンコックからは何度も行きましたが、いつも仕事で会食と夜想会しか行かなかったからでしょうか、覚えていることと言えば着陸の度にひやひやするカイタック(啓徳)空港くらいです。海の上に着陸するかのように香港の街に近づき、ビルの合間を割って入るといきなりランディングとなります。何度降りてもヒヤヒヤする空港でした。この危ない

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海外の記憶 シンガポール

海外の記憶 シンガポール

私が初めてシンガポールに行ったのは1983年頃でした。当時メルボルンに駐在していて、そこから会議に出席する為でした。シンガポールでは事前にいろいろな注意事項がありました。つばの吐き捨て、ガムの持ち込みや噛むことも罰金だと言われて驚きました。今は知りませんが、当時はむち打ちの刑もありました。麻薬は運び屋でも死刑です。

自動車の数も制限されていてナンバープレートの値段がめちゃくちゃ高いのです。記憶が

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海外の記憶 雲南省・昆明

海外の記憶 雲南省・昆明

1986年に突然、雲南省・昆明に出張が決まりました。8年近く過ごした豪州から帰ってきたばかりで感覚的には英語さえ出来れば海外は問題ないという感じで出かけました。当時中国に行くには中国側からの招待状が必要で、それをもとに短期ビザを取得することになります。中国との国交回復から15年が経っていましたが、まだ外国人が中国内の都市に自由に行くことは認められていませんでした。

成田から広州まではJALで行け

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海外の記憶 上海

海外の記憶 上海

1986年の上海は静かな古都のような雰囲気が漂っていました。戦前はイギリス、フランス、アメリカの租界があり、金融センターとして繁栄し香港ユダヤ人も大挙して上海に移り住んだそうです。日本も蛇口地区を中心に実質的な租界としたことで工業化も進み上海は中国一の大都市に発展しました。しかし、戦後、中国共産党が国共内戦に勝利すると外国人資本家や文化人、職人、技術者などはほとんど香港へ移住し、租界当時の西欧風建

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海外の記憶 北京

海外の記憶 北京

初めて北京に行ったのは1989年4月の後半でした。契約の調印式に出席する幹部の鞄持ちという立場で緊張の連続だったことを覚えています。あの天安門事件がその年の6月4日ですが、もちろんその時点ではあんなことが起こるとは知るよしもありません。ただ、予兆はいろいろなところにありました。車の窓から見るだけでも、共産国らしくない騒然とした雰囲気が漂っていました。町の至るところで人が集まり、学生たちの意見に耳を

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海外の記憶 インド

海外の記憶 インド

私が小学生のころにインドのネール首相が日本にやって来ました。多分私が名前を覚えた初めての外国要人かも知れません。学校では上野動物園の象のインディラをくれた人と教えられた記憶があります。ネール首相ありがとうって感じだったと思います。

子供の頃住んでいた私鉄駅の近くにインディアンカレーと言う名のカウンター席だけの小さな店がありました。看板にはインド人ではなく、羽根をつけたアメリカインディアンの顔が描

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海外の記憶 ドバイ首長国

海外の記憶 ドバイ首長国

ドバイに出張したのは2008年の11月、リーマンショックのあとドバイやアラブ産油国の経済状況がどうなり、それが世界経済にどんな影響を与えるかを肌で感じる為の出張でした。ドバイ国際空港はエミレーツ航空の飛行機がずらっと並んでいて空港施設も彼らの為にあるように見えます。まだリーマンショックはエミレーツ航空に大きな影響を及ぼしてはいませんでしたが、それでもスリランカ航空の株式を売却するなど経営改革には手

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海外生活の記憶 欧州2000’s 19 イスタンブール

海外生活の記憶 欧州2000’s 19 イスタンブール

トルコの首都イスタンブールの西側は欧州、東側はアジアということで正にボスポラス海峡を挟んで欧州とアジアをまたぐ大国です。昔はイスタンブールはコンスタンティノープルと呼ばれ東ローマ帝国の首都でした。その為、古い寺院はキリスト教会をイスラム教会に改造しているので壁を剥がすとキリストの壁画が出てきたりします。当時トルコはEUへの加盟を求めてあと少しというところまで来ていました。しかしヨーロッパ諸国にとっ

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海外生活の記憶 バンコック90’s 10 おかま

海外生活の記憶 バンコック90’s 10 おかま

タイ人の女性は働き者で男性はなまけものみたいな話をよく聞きました。一般論にすることはとても出来ないと思いますが、男の子が生まれても女の子として育てる家があるとも聞いたことがあります。何故かと言うとオカマとして育てた方が将来、生活が楽だからと言うのです。確かにバンコックやパタヤビーチにはオカマショーをいつもやっている劇場がありました。私も二度ばかり見ましたが、これがとても綺麗なのです。まるで宝塚に行

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