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15年来の推しがフリーになった

「ターボ藤井」こと藤井貴彦アナがフリー転身を発表したのは1月中旬。
そのニュースを見て私は「嘘だろ!?」と思ったと同時に「やっぱりな」と諦めの境地に達していた。

コロナが蔓延っていたとき、彼が放った言葉は人々に勇気を与えた。世の中が彼の声に耳を傾けた。
でも私は「やっと世間が推しの良さを気づいたか~」と若干のマウントじみた気持ちを抑えながら、どこか遠くへ行ってしまったように思えた。

何回も書いているが、私がターボさんを知ったのは人生で最もどん底だった中学3年のときである。当時はクラスメイトの半分から「Pさん」と陰口を叩かれ、給食時に至っては誰もが1cmほど離して机を整えた。同級生から見れば、私は汚かったのである。教科書類なんかは汚物を触る如く扱われたし、給食当番時の配膳は誰も率先してやってくれなかった。
他にもいろいろあるけれど、少なくとも一日の多くを過ごす場所で人権を軽視され続けた私にとって「ターボ藤井」は救世主のような存在。ターボさんのおかげでアナウンサーになる夢を追うこともできたし、高校放送部で物にしたアナウンスは今や大きな財産となっている。

ターボさんを慕う理由は一言では片付けられないのだが、元を辿れば彼もまたつい最近まで普通のサラリーマンなのである。最も、青森県のサラリーマン平均年収(331万円)の何十倍は貰っていると思うがそれはそれ。
皮肉にも、私の心は芸能人や漫画やアニメでもなく、テレビに出ている一人のサラリーマンによって変わり始めてしまった。あの土曜の朝に見たニュース読みはターボさんが私に向かって語っていたからだ。

高校進学と同時に、ターボさんはズムサタからevery.に異動した。でも私はチャンネルを合わせることができなかった。
当時はあくまで「ズムサタのターボ藤井」を推しているのであって「every.の藤井キャスター」を推しているわけではなかった。だから同じ人物がテレビに出ていたとしても、そこにいるのは私が知る藤井貴彦さんじゃなかった。
半年後、日テレアナ推しのフォロワーと一緒にevery.実況で盛り上がるようになってそこからようやく見られるようになった。定時制高校の特権で学校終わりに即帰宅して、待機がてらミヤネ屋を見たのは良い思い出である。このときが一番放送オタクしていたといっても過言ではない。
しかし、そんな楽しい時期も人間のいざこざによって終わりを迎えた。顔が見えないとはいえ、大の大人相手に切れたナイフさながら思ったことをすぐに口にしていた。若気の至りとはこのことだが、今思えばミュートやブロックなりして距離を置くか言うにしても言葉を選ぶか黙って別のことをやるかすればよかった。
ターボさんの著書「伝える技術」には「敢えて言葉を寝かせることも必要」だと書かれている。にも関わらず、私はそれが出来なかった。離れていった人が「それじゃあアナウンサーになれないと思う」と言った真意が今になってようやく腑に落ちているのはそういうことなのだろう。

程なくして、私はラジオ沼に落ちた。
きっかけはたまたま聴いていた地元のラジオだった。奇遇にもそこのテレビは日テレ系。気がつけば、ラジオばっかり聴いていた。

そこからだろうか、every.を見なくなったのは。

遠ざかっていったのはTwitterでのいざこざだけではなかった。
高校を3年で卒業するために、2年次からは午後の授業も始まった。そうなると帰りは遅くても18時半。every.には到底間に合わない。とうとうテレビを付ける時間が少なくなって、気づけば一日中テレビを付けなかった日も珍しくはなかった。
それどころか狭い門を潜り抜けた同性のアナウンサーに対して嫉妬と憤怒を覚えるようになっていた。苛立ったのは読みの技術。「これなら私のほうが上手い」と感じながらも、肝心の努力は全くしていなかったのである。

多様性が叫ばれている中でこの手の話をするのは大変に気が折れるが、日本国内のアナウンサーは美麗が当たり前となっている。プラスサイズの私には写真一つで落とされることは目に見えていた。
「アナウンサーになれなくともマスコミの一員にはなりたい」
浅はかな気持ちで受けた地元放送局は一次選考で撃沈した。企業研究のためのテレビ視聴は考えが及ばなかった。

もしもあのとき、every.を見続けていたらどうなっていただろうか。
本当に尊敬しているのなら何がなんでも拝聴する時間を作っていればよかったんじゃないのか。
アナウンサーになるために、そのとき必要な努力をしていればどんな人生になっていたのだろうか。

残念ながらどれも叶わなくなったことに加え、大学進学を機にそういう時間を見繕えなくなった。録画すればそんなことはないだろうが、我が家には録画用HDDがない。ていうか、そこまでして見ようとは思わない。
推し活の観点では、そういった小さな活動をするのが大事なのは知っている。けれど、ターボさんを崇め奉る体力を持っていない。
私がターボさんを尊敬し続けているのは、卓越したアナウンス技術はもちろん、彼の人柄と仕事や物事の向き合い方に惹かれたからだ。大人になって改めて社会人・藤井貴彦の凄さを実感できるようになって、学生時代では到底考えられなかった推しの魅力を再発見したのである。

あれから15年。
私は「物書きナレーター」として執筆とナレーションを請け負っている。
あるときから「書いた物を公の場で出すことはアナウンスと同じだ」と気づいてしまい、今に至っている。
ターボさんが若手時代に出演していた番組の一つにニュースプラス1というニュース番組がある。そこのメインキャスターだった真山勇一さんが卒業時に「現場主義の徹底」を熱弁していた。ターボさんもまた、有事の際は現場に赴いて取材を行っている。

多分私はアナウンサーというよりジャーナリストになりたかったのかもしれない。
でもターボさんはアナウンサーだ。それなのに、金曜日は「取材の日」と題して各地の今を追っている。
そういえば、NHK杯用のアナウンス原稿を書くときに学校の先生に取材を申し入れたことがあったっけ。だから真山さんが「現場第一」としたのも、取材しないと物を伝えることができないからなんだと思った。

最後に不思議な話をば。
every.実況当時、界隈内で「もしも日テレアナがゴチに出たら?」という妄想で盛り上がったことがある。「ターボ藤井がもしVIPチャレンジャーとして参戦したとしても、同期のバード羽鳥はあくまで司会だよね」という内容だ。誰もが「フリーになることはない」と思っていたからこそ盛り上がれた話である。
それがどうしたことか。ターボさんがフリーになってすぐ、本当にVIPチャレンジャーとしてゴチに参戦した。

嘘から出た誠とは怖いもので、フリー転身よりもびっくりしたのを覚えている。
もし高校時代の私と会話できる機会があったら、真っ先に推しがフリーになったこととゴチに出たことを話すだろう。

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