見出し画像

「海原」

ある夜の海。
ひとりの女性が箱を抱えて砂浜を歩いていた。
薄暗くあまり良く見えなかった修行僧は小さな声らしいものを
聞いたが、そのまま海に浸かり禊ぎを続けていた。
明くる日、箱の中は開けられ中には何も入っていなかった。
アオバトが海水を飲みに来る時期で、カメラマンで賑わう大磯の海。
命がけの塩分補給には、子供の鳩もいて、それをハヤブサが狙うのだ。
母なる海は時に優しく時に荒々しく波を起こし、アオバトの群れは翻弄されながらも命の補給を続けるのだった。
アオバトが静かな山の巣に帰った頃、巣の中には人間の子供がいた。
あの夜、捨てられた未熟児の赤子だった。
二羽のアオバトは、自分の子供に飲ませるピジョンミルクをその子にも飲ませていた。赤子には姉弟がいた。
姉弟のアオバト達がだんだん大きくなり、いよいよ巣立ちの時が来る。
姉弟たちは、巣立ちの準備を始めていたが、赤子は成長が遅くまだミルクを
飲ませてもらっていた。
姉弟は、いよいよ巣立ち、巣の近くにはいるものの、親から食べ物をもらう事は少なくなっていた。
赤子ながら、一緒にいた姉弟が少し遠くにいるのは寂しく感じたのか、
あと少しで届く場所まで行きたくなっていた。
翼があれば飛べるのに。
とうとう捨てられた赤子は、勇気を出して巣から飛び降りた。
死んでしまう。
その瞬間、育ての親バトがその背中に乗せて飛び立った。
人の赤子は未熟児とはいえ、重い。力尽きたアオバトが
赤子を落としてしまった。
そこは海上で船遊びを楽しむ赤子を捨てたあの女性と連れの男性のいる
ソファーの上だった。
二度命を救われた赤子は、産みの親とは知らず泣きわめいた。
ここには居たくなかったのだ。野生の感覚がそう思わせた。
産みの親は何も知らず、思い出しもせず、鬱陶しいという顔をした。
親になるには資格は必要無いが、この女性はやはり同じ事を繰り返すのだろう。立派に成長したあのときの僧侶は総てを把握し、赤子はしかるべき所で幸せに暮らせることとなった。
それでも時々、大磯の海に来て、大きな声で「ありがとう。
元気にしてるの」と話をしに来る事がある。
姉弟姉妹や親の子孫がきっとここに居るはずだから。
目を細めながら、綺麗な色のアオバト達に光が当たるのを眺める姿が
ここに来ると良く見かけられる。

                         fin

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?