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【Kさんの記憶】昭和30年代の福島市〜まちには風情ある木造の建物が並んでいた

 生まれてから30歳まで、現在の福島駅西口の三河町で暮らしていたKさん(昭和20年生まれ)の記憶です。
 昭和59、60年頃まで福島駅西口には、国鉄の機関区があり、蒸気機関車の転車台が設置されていました。機関車の煙で真っ黒になった板塀が続く街で、かくれんぼやチャンバラで遊んだ少年時代のこと、国道13号と信夫山トンネルが整備される前の風情ある木造建築物や洋風建築物が並んでいた昭和30年代の福島市の風景について、“記憶”をうかがいました。
※カバー写真は明治後期の福島市の絵葉書です

日銀支店に勧業銀行、ドーム型の図書館、福ビル…街を彩った建造物

──福島市はまちづくりをまちがったとおっしゃっていましたね。

 Kさん 
福島には県庁があるから、昔の古い建物がたくさんあったわけ、当時は。残しておけば、価値のある建物だったない。日銀支店からはじまって、勧業銀行から何から何まで全部こわしちゃったんだもの。福ビルだって、大正初め、昭和初期かな?のビルディングだからね。昔ながらの宿屋とかもあったしない。ああいう建物を街の中に残しておけば、また違ったんだけどない。竹屋からはじまってな、あれは電電ビルの後ろだったかな? 
※日本銀行福島市店は、東京駅を設計した辰野金吾の設計で1913年に建設された。

 奥さん 新町ビルの後ろかな。

 Kさん あそこらへんも、もう名残はないからね。竹屋は駐車場になっちまって。電電ビルは電車通りの1本北側の通りだったかな。東邦銀行大町支店の裏あたりかい。藤金旅館は平和通りをはさんで、中町の羊羹の菊屋の向かいにあった。なまこ蔵のね。ラジオで聞いたか、本で読んだのか忘れちまったけど、どっちの旅館は有名人が泊まった旅館なんだ。作家だか詩人だか、野口雨情か竹久夢二じゃないかな。

 あと惜しいことに、今の隈畔(わいはん)のあたりに図書館があったんだよ。ドーム型のね。だけど、昭和35年頃だったかな、焼けちまったんだ。あれは惜しかったよな。ああいう建物を残しておけば、それだけで観光になったのない。中途半端に栄えたからダメなのない、福島は。

 あと、森合にあった福大の経済学部なんていうのも、きれいな木造で。昔は街の中に福大(福島大学)のキャンパスがあったから、若い者で結構賑やかだったんだよ。ところが、大学ぜ~んぶ、外さ持ってって、(街を)広げる気してない、おっきくして、たぶんない。

 あと昭栄製糸なんていう工場もない、街のなかで不便だったんだろうし、都市計画もあったんだろうけど、太田町から郊外に移転しちまった。昔からの工場でない、世界遺産になった富岡製糸場(群馬県)みたいなあんな感じだったの。昔俺が住んでた家は三河南町の工場の裏にあったもんだから、風向きで蚕様の臭いがしてきて、子どもながらに臭かったのを覚えてるよ。

 奥さん 独特なんですよ、養蚕のカイコの臭いって。

 Kさん 好きな人はいねえな、あの臭いは。マユを煮んだな。

 奥さん それで糸を取るんですよ。そのマユの中のサナギの臭い。

蒸気機関車の転車台があった福島駅西口

 Kさん あとはね、国鉄の機関区で蒸気機関車の転車台があったんだ、デカいの。あれなんかも今残しておけばすごかったよ。だけど、(福島駅の)西口つくっちまって、西側を広げる気ぃしてな。

──西口はもともとなかったんですか?

 Kさん
 なかったから。面影もねえ。昔は福島駅の入り口は東口だけ。あづま陸橋もねがったし。(今の西口から)駅前(東口)出んのには、太田町のガードをくぐっか、三河町の陸橋をわたっかだった。俺のうちはちょうどその真ん中だったから。まあ、あづま陸橋ができて助かったけどない。

 昔の福島駅の駅舎は、辰野金吾が設計した東京駅を模して造ったっていってたからない。それも全部つぶしたべ。それは30年代後半かな。37、38年頃だな。そして、新しい駅舎にしたの。コンクリの。
 だけど、昔の駅舎はそのまま前の場所に置いてない、もっと太田町か三河北町のほうさ近いあたりに、新しい駅舎を建てるとか、やり方はあったんじゃないかと思うんだ。
 そして、西口さ、昔のロータリーや機関庫を置けば、(鉄道博物館のある)京都の梅の小路みたいで、格好になったのよ。ところが全部おっきくする気ぃして、発展させる気ぃして、全部壊しちまったんだな。まず、街づくりが下手だよな、福島は。

 福ビルなんて、街の真ん中の3階建てのビルで、福島で一番高かったんだから。よく遊びに行ったもんだけど、中はまっ暗でない、一番最初は下に市役所か警察署だかが入ってたんだ、たぶん。俺が4つか5つくれえのときだな。定かではねえけどない。2階はなんか会社が入ってたけど、一番下には福島市役所が入っていた。さだかではねえけどない。あと不二デパートってデパートがあってない。あとはカメラ屋があったのは覚えがあんな。2階、3階はなんか、どっかの会社が入っていたんじゃないかな。

──福ビルの跡はどうなっているんですか?

 Kさん
 そこは今、広場になってっぺな。駅前広場からパセオに行く角っこに。

 奥さん 街中広場ですよね。

──じゃあ、福ビルのあとはエンドーチェーンになったってことですか?

 Kさん
 そう、福ビルのあとは、クローバーが入って、その後にエンドーチェーン。それをなくしてからは広場になっちまったんだ。その前を路面電車が走ってて、大町の中合前を曲がって、伊達長岡から分岐して、(現伊達市の)保原、梁川…。保原から(霊山の)掛田に行ってた。あとは飯坂の湯野(へ行く路線)。

 俺はその電車で、高校を卒業してから、伊達駅の裏にあった東北電気製鉄という会社に3、4年くらい通ったのよ。会社はそのあと東北振興化学になって、そのあと、東北重化学になって、そのあとはわからない(笑)。

 昭和39年頃、3年間くらい通ったない。朝一番の電車で行くんだ。6時50分発の福島駅発に乗って、伊達駅に着くのが7時50分頃。これは本で読んだんだけど、明治時代は軽便(軽便鉄道)で、「へっつい」っていう蒸気機関車が走ってたんだ。※へっつい=極端に重心を下げることで軽量に設計された機関車のこと。台所で使われたかまど(へっつい)に似ているところから、「へっつい」の愛称で呼ばれた。

 奥さん 日本を一番発展させたのは福島産の繭。それでいろんな建物が新しく、三島通庸が県令のときに全部建てたんですよね。(桑折町の)伊達郡役所とか、養蚕を主にして。

 Kさん 三島県令の一番の功績は万世大路だべ。俺は3回くらい通ったよ、万世大路を。あそこはひどかったからない。俺は昔、アイスクリーム屋でバイトしてたんだ。トラックの助手席に乗ってはじめて通ったの。国道13号できる前だから、高校時代だね。その後、バイクで米沢まで行ったこともある。あれは昭和40年頃かな。13号線開通前だったと思う。景色はいいんだ。そのかわり車1台通ればいいほうで、すれ違いができない。現13号線の上を通ってたから。栗子トンネルは素掘りでない。堀りっぱなしの。結構高いところを行ってたんだ。

チャンバラに映画館、お小遣いを握りしめておもちゃ屋へ

 Kさん よく行った場所は、子どものときは中合だな。中合が大町にあった頃。デパートっていうと、夢があったもんない。スズラン通り(現パセオ通り)にもよく行ったない。あと、俺は模型作りが好きだったもんだから、よく模型屋に行ってたない。模型屋はあんまり福島にはねがったけど、中町のせきや、あとは万世町の新光堂。この2軒くらいしかなかったんだ。

 あとはおもちゃ屋。スズラン通り(現パセオ通り)のツタヤの北側にあったえびすや。トイランドができる前で、当時は福島では唯一の玩具屋だった。そのトイランドも閉店しちまったけどね。あとは、中合デパートにおもちゃ売り場があったな。

 俺はやっぱり飛行機、軍艦、戦車が好きだった。まだ戦争が終わって10年過ぎたか過ぎねえかくらいだから。あとは鉄砲。刀もあったない。
 俺が一番遊んだのは、ゴム動力の飛行機。ライトプレーンっていうんだけど、自分でつくってない。そのへんの文房具やに売ってたから。模型材料はね。ライトブレーンは随分飛ばしたない。

 昔は学校のグランドにも自由に入られたからない。朝早く起きて、6時頃、学校がはじまる前、飛ばしに行くんだ。近所の子も飛行機飛ばしに集まってくんのよ。5、6人いたのかな。学校はじまるまで飛ばし方やって。よく学校の屋根の上に上がったない。あの頃は1機キットで30円か、だいたい。高いのはキリねえから。子どものお小遣いで買えるのは、だいたいそのくらいだったない。お小遣いは1日5円か10円くらいだったかな。お祭りになっと100円から200円くらい。

──飛行機を買うには3日間お小遣いを貯めないと…?

 Kさん
 貯めないとダメ。

──じゃあ、我慢して…。

 Kさん
 いや、我慢しない。親にねだる(笑)。親はダメだから、今度はじいちゃんばあちゃんに行く。あとよく遊んだのはチャンバラ。あとは、木でピストルつくって、口で「バンバンバン!」って。

──チャンバラは何の影響だったんですか? 

 Kさん 当時は『笛吹童子』。俺、小さい頃覚えがあるのは『鞍馬天狗』からはじまって、『笛吹童子』『紅孔雀』あとは東映が中村錦之助、東千代之介、片岡千恵蔵、市川歌右衛門、そのへんか、時代劇で有名なのは。市川歌右衛門は、北大路欣也の父親だよ。あとは伏見扇太郎なんていうのもいたな。昔の東映映画だない。チャンバラ全盛の頃。だいたい子どもらいっぱいいたから。

 あとはかくれんぼだな。鬼ごっこはあまりやんなかったな。かくれんぼだな。俺は西口かな。あのへんには材木とかいろいろ協三工業の材木とかいっぱい置いてあったのよ。あとは田んぼしかなかったけどない。どちらかというと、機関区の後ろは国鉄の官舎が多かったの。塀なんていうのは、真っ黒でない。すすで真っ黒で、炭鉱街みたいだった。

 奥さん 「え、こんな暗いところあるの?」なんてびっくりしたったけど。

 Kさん 昔はみんな板塀だったから。ブロック塀なんかなかったからない。

──そういうところでかくれんぼとか…?

 Kさん
 そうそう。あとは長屋とか近くにあったから。あと覚えがあんのは鍛冶屋か。鍛冶屋は、町に1軒くらいあったような気がすんな。鍛冶屋の前で見てたりない。おもしろくて。

 俺はあんまり野球とかそういうのはやんなかったんだ。あんまり興味なかったんだ、団体競技は。もちろんサッカーなんかなかったし、あんのは野球、ソフトボールかくれえなもんだから。
 俺は模型づくりが好きだったから、自分でボール紙買ってきて、想像してつくったり、戦車とか、軍艦とかない。俺の親父が支那事変……今でいう日中戦争に行ってたから。そのときの戦争の話だの聞いてたから、影響はあっぺない、やっぱり

──鍛冶屋はその当時、何をつくってたんですか?

 Kさん
 鎌とか鍬(くわ)とかかなあ。農家が多かったから。当時はそこでつくって売ってたか、金物屋に卸してたんじゃないかな。太田町には下駄屋があったな。瀬戸物屋あったし、ラジオ屋あったし。俺らの時代の電化製品はラジオだったもの。

 あと親父から聞いてたのは『忠臣蔵』だない。また、俺の親父、話がうまかったんだ。『忠臣蔵』は今でもいろんな逸話が覚えてっつおい。「赤垣源蔵の徳利の別れ」とか、神崎与五郎とか堀部安兵衛、高田の馬場の決闘とか、仇討ちとか。寝物語で、ちっさいときよく親父に抱かさっち、寝ながら聞いたもんだ。

──チャンバラもお父さんの影響ですか?

 Kさん
 それもあんない。だけど、近所の子が集まると、これしかなかったんだ。チャンバラと戦争ごっこ、西部劇か。西部劇も流行ったからない。ジョン・ウェインとか。ゲーリー・クーパーとか、バート・ランカスターとか、リチャード・ウィドマークってのもいたな。カーク・ダグラスとか。

──映画館でご覧になったんですか?

 Kさん
 その頃は五月町に国際と名画座って映画館があったの。国際劇場ってところで、よく洋画やってたんだ。チャンバラは東宝。その後、大映の脇に東映があってない。東映があったのは昭和38年頃かな。当時は10軒くらいの映画館があったんじゃないかな。

 そのほかにテアトル福島、駅前にあった20円で見られるニュース映画劇場。あとは松竹だべ。それから稲荷様(福島稲荷神社)の後ろのあたりに第一映画劇場というのがあった。その向かいにテアトル福島。文映ってのが、加賀谷の向かいにあった。
 芝居小屋では、お稲荷さまの北側にあった新開座。昔ながらの風情のある建物だったんだ。俺が覚えがあるのは、鉄道の慰安会とかここでやって、昔、歌手なんてきてやってたない。そのあと、映画館になったんだ。中央映画劇場って言ったと思うな。

 その頃はテレビなんかなかったから、見るのは映画しかないからない。(入場料は)こどもで55円くらいだったかな。今でも覚えがある。おにぎり握ってもらって、朝から晩まで、8時頃から夕方の5時頃までは見ったな。昔は5本立てなんてのもあったんだ。普通は2本立てか3本立てなんだけど。だから朝から晩まで見てたない。『笛吹童子』の大会なんていうと、1部だけじゃないの、3部、4部、5部までやったと思うな。それをずっと見てるわけ。
 売店で買うお菓子代までは、もらったようなもらわねような…。売店ではキャラメル、チョコレート、せんべい、パン。そんなもんかな。あとは牛乳、コーヒー牛乳か。あとはジュース。ほだもんだったな。何売ってたかな。買わんにからよっくと見たことねえけど。中は煙草の煙でモンモンでない。昔はおおらかだったから。

──テレビが一般家庭に普及したのは、いつ頃だったんですか?

 Kさん 
昭和30年代かな?

 奥さん 皇室(現上皇陛下)のご成婚の頃だと思います。

 Kさん その頃はお医者さんとか。おらうちはまだなかったな。東京オリンピックの頃。おらうちは親父を早く亡くしたから。13歳で亡くしたのか。中学校1年のとき。それまでは、おぼっちゃまだったんだけどない(笑)。

 だからテレビは他のうちさ行って見でだ。近所の子どもがテレビのあるうちさ集まってない。だけど、オリンピックはあんまり見なかった。その頃は19(歳)だったから、遊んでたな、友達と。ただ、前の東京オリンピックは、去年のオリンピックとは、盛り上がりが違ったない。前のオリンピックは、戦争に負けて、たかだか10年20年経たねうちにやったんだから、日本人がどこまでやんだっていうそれだけが楽しみで。そんなにしょっちゅう見てたわけじゃねえけど。

夕方になるとぼんぼりが灯る…遊郭の記憶

──昭和39年の東京オリンピックの聖火リレーはご覧になりましたか?

 Kさん 
あったみたいだけど、見でねない。高いところといえば、福ビルと富士デパートと中合の屋上と、あと県庁。県庁の屋上が5階建てで、よく屋上にあがったない。高いところそこしかなかったから。

 福ビルはやっぱり町の真ん中にあったからない。蛇腹式のエレベーターがあったんだよ。自分で開けるの。ときどき昔の古い洋画に出てくるわい。鉄骨みたいなのが網になってるの。昔はエレベーターは、そこしかなかったからない。福島県でもそこしかなかったと思う。

 中合は、俺がよく知ってるのは、大町の頃。ミサイルタワーできる前の中合だからない。その前の中合は3階建てで、木造だかなんだかは忘れっちゃけど、よく中で博覧会、やってたの覚えがあんな。売春禁止法が法律になる前で、性病の展覧会だとか、そういうのやったんだよ。

──ちょっと想像がつかないですね。

 Kさん
 つかねばい。あったんだよ。俺が3つくらいのときかな。子どもの頃は(性病が何か)あんまり分かんねかったけどね。

 奥さん 中合で?

 Kさん
 中合でやってたんだよ、昔。「性病には気をつけましょう」ということで。梅毒だの淋病だの、流行った頃だからない。あと矢剣町のあたりは遊郭街だったから。「一本柳の遊郭」って言って。そこにもいい建物が2、3軒あったんだよ。『千と千尋の神隠し』に出てくるような感じの。覚えてるのは常盤楼かな。あれは昭和57、58年くれえまであったなあ。

 福島(市街地)の遊郭は、そこだけだべ。瀬上と松川にもあったかな。だから矢剣町の一角だけ、昔の菅野商会の前だけ道広いわけ。そうして、夕方になっとぼんぼりが出て、電気ついで、きれいだったんだ。

 その近くに俺の同級生がいたの。ときどき遊びに行ってたんだ。夕方になっと電気つくんだよない。(周囲の大人からは)「そこに行ったらダメだかんな」って。ちっちえ頃は、「なんなんだべな?」と思ってたんだ。
 鉄道にいた俺のじいちゃんなんてば、「飲む・打つ・買う」の人だったから、よく行ってたらしいけども。なんでもなじみのおなごがいたらしいんだわ。俺のばさまはおとなしい人だったんだけど、それにはヤキモチやいて、格子戸さ石ぶっつけたとかなんだとか、聞いたこともあったな。

──遊郭は売春禁止法で?

 Kさん
 そう、ダメになっちまった。昭和30年頃だっけか。赤線廃止になって。だから、中合で性病のあれとかあったわけ。子どものときは「あの人、梅毒だ」とかそういう話、聞いたことあっつおい。「梅毒ってなんだ?」って聞いたら、「いいんだ、知らなくて」って。その一本柳ってのは、だいぶ賑やかだったらしいよ。

──その遊郭は江戸時代からあったんですか?

 Kさん
 どうだべ。でも、江戸時代はこっちのほうはあんまり栄えてねがったから、明治になってからじゃねえべか。国鉄ができてからだと思うよ。本当に常盤楼なんていう立派な建物があったんだぞい。売春禁止法になってからはアパートみたいになったけどない。「引揚げ者入ってんだ」とか、そういう話も聞いたげっちょ。あの建物も残しとけばなあ。

 新開座は(福島市の民家園にある)廣瀬座よりも大きかったような気がする。広瀬座は梁川町にあったんだ。あのへんはカイコで栄えたんじゃないの。養蚕で。だからあんだない。新開座も民家園さ移設したらよかったのにない。

 中学の同級生が旅館の息子で、遊びさ行って、玄関入ると、でっかい太鼓があって、「なんで太鼓があんだ?」って話になって。何に使ってたんだべない。なにかのお知らせだべか。でかい太鼓があって、その脇に階段があって。
 遊郭の道をずっと行ったところに、性病の検査の病院があって、八木田橋の下には伝染病の患者の寮があったんだ。俺、1回入ったことがあんだ。その頃は普通のアパートになってたけど。その建物なんていうのも、昔の建物だかんない、子ども心にすげえなと思ってたけど。

 俺、昔の建物好きなんだよ。今、福島はほとんど古い建物、残ってねえからない。もったいねえんだ。あと公会堂なんてのもあったばい。今の公会堂と同じ場所に建て替えしたの。すばらしかったんだ。新浜公園のところの裁判所とかね。桜の聖母も、福ビルも。もったいないんだで。
 一番素晴らしかったのは、やっぱり新開座ね。鉄道の宴会で、折箱の弁当もらわれるから、じさまばさまに連れられて、行ったことがあんだ。俺のじさまが機関区でちょうど助役やってたのよ。招待か何かあったんだべな、全員が出るわけじゃねえからな。

 じさまは定年前に国鉄を辞めたんだな。昔は定年が55歳だったからな。52、53歳で辞めたんだ。で、うちで遊んでたんだけど、その後、「協三工業に来ねか?」って言わっち、協三工業にときどき行ってたみてえ。蒸気機関車つくってたからない。ちっさいの。

──食べ物屋さんで覚えてるのは?

 Kさん
 食べ物やってのは覚えてねえけど、子ども相手の小さいお店…駄菓子屋か。駄菓子屋なんていうのは、町に1軒なんてもんじゃねえ、3軒くらいあって……3軒どころじゃねえか。だっておらげの前に3軒か4軒あったんだから。
 おっきなところもあったけど、ちっちえところもあった。狭い間口のところも。飴とかせんべいとかまんじゅうとか、そういうのがいっぺえあったの。ばあちゃん一人でやってたりない。あとちっと気の利いたところは、いろんな鍋とか家庭用品までおいたところもあったけどない。そういう駄菓子屋がいっぱい近くにあったんです。

──いつ頃まであったんですか。

 Kさん
 昭和37、38年頃まででないかな。昭和35、36年頃からスーパーマーケットっていうのが出てきて、近くにベニマルができたんです。(福島)駅の裏の三河町の、今でいうと、西口から出て1本太い道路があっぺ。あの道路をまっすぐ100メートルくらいのとこかな。そこにベニマルができたの。当時のスーパーマーケットのはしりなんだべな。今はマンションが建ってるわ。

 鉄道の中にも職員の物資部ってのがあったけど。東口に。西口だけじゃなくて、あそこらへん全部国鉄の建物だったから。車掌区から客貨車区からいろいろあるわけだ、区が。その中に物資部って言って、鉄道員の家族だけが、鑑札(かんさつ)っていうの持ってて、見せて(買い物をする)。要するに他より安いわけよ。

祭りの日、ハーモニカを吹いていた傷痍軍人の記憶

 Kさん 福島市の花街は仲間町だったな。万松とか芙蓉閣とか大亀楼とか、いわゆるこのへんが花街で、芸者とかいて、おらげの親父は県庁にいたから、しょっちゅう宴会で酔っ払って、すし折ぶら下げて帰ってきた覚えがあっつおい。よくテレビで見ると思うけど、あれ嘘じゃないんだ、本当なんだ。

 福島稲荷周辺が一番華やかだったね。料亭街で。大亀楼なんてのも、すごい建物だったんだぞい。今は郊外さ行ったべ。昔は3階建ての木造の料亭で、中なんてすばらしかったんだから。お稲荷さまの周辺は今は見る影もねえけど。だいたい、このへんまで福島の街は元気だったんだ。真ん中に13号線が出来てからいかなくなっちまったのよ。

──なぜ、こんな街の真ん中に国道を通したんですかね?

 Kさん
 街をおっきくするためだべ。福ビルの西側あたり、今は13号線周辺に闇市があったから。闇市なんてのも、すごかったよ。人、いっぺえいて、安いがら売ってたから。闇市は13号線ができるまではあったんじゃないかな。

 戦後間もなくだべ、闇市ができたのは。進駐軍が腰にピストルさして、2、3人歩いてたの、覚えあるもん。(福島)製作所に進駐軍が駐留してたって話も聞いたことがあんない。あとは桜の聖母にも米軍の捕虜が少し勾留してたっていうのも。

 なんて言っても、お稲荷さんあたりまでは、賑やかだったんだ、福島も。今はせいぜい仲間町とか北裏(きたうち)の一角かい。だんだん、だんだん、寂れてくんだもの。あとは車社会になったしね。国道13号ができたときに、寂れちまったんだと思うんだ。13号は福島市内にしては道路広いかんない。だから信号待ちして、こっち(駅前方面)に渡るのはめんどくさいもの。

 スズラン通り(現パセオ通り)は道が狭かったから……闇市もあったしね。だけど、四小の前がなぜか道が広かったんだよね。昭和25、26年頃かな、移動動物園が来たことあんの。四小の前は道幅当時としては広かったのない。昔は馬車くらいか通らなかったから、通るのは馬車とオート三輪くらいだから(十分な広さがあった)。

 稲荷様なんてのも、お祭りのときには、サーカス、見せ物小屋ない、3軒くらい立ってたんだ。昔はすごかったんだ。ストリップからサーカスから、化け物屋敷からゲテモノない、ろくろ首とかそういうの。「親の因果が子に報い、こんな姿になりました…」っていう見せ物小屋がズラーッとない、文化通りまで屋台が並んでいた。

──晴れ着を着た子どもたちの写真を見たことがあります。

 Kさん
 みんなそうだったからない、当時は。昭和30年からまりだな、やっぱり。俺の妹あたりもお祭りと正月あたりは着物着ったからない。

 奥さん 私たちの世代はお盆とかお正月に着物とか浴衣とか着せられたとか、そんな覚えしかないんですよね。だから戦後の10年くらいあとですよね、結構賑やかになったのは。

 Kさん 昭和27、28年、30年からまりかな、お祭り賑やかだったね。俺は屋台の出店を見るのが好きでね。おもちゃ屋にねえおもちゃがあんのよ。マニアックなやつが。鉄砲とかね。火薬を使った100連発のやつとかね。早く打つ鉄砲とか。そういう町のおもちゃ屋にはねえ鉄砲とか売ってたんだ。

 奥さん わたあめとか、ピョンピョンはねるゴムガエルとか、ニッキあめとか。

 Kさん そういうのもあったな。あとは金魚すくいとか。飴細工もあったな。べっこう飴とか。昔のべっこう飴はうまかったな。今のべっこう飴とは味が違うもんな。

 奥さん 女の子だと、水飴を折り曲げていろんなものをつくれるものとか。

 Kさん 夏、子どものときは楽しかったな。今は出店なんていうのは、全然おとなしいげんちょ。上品になって。
 あと覚えがあるのは傷痍(しょうい)軍人。お祭りっていうと、立ってたな。白い着物着て、戦闘帽かぶって、アコーディオンとかハモニカとか吹いて、前に箱置いて。

──お金を入れてもらうんですか?

 Kさん そう。目ぇ見えねえ人とか、片足ねえ人とか、腕ねえ人とか、戦争で負傷して帰ってきた人を傷痍軍人とか言ってたんだ。昭和32、33年頃までいたのかな。その人たちはどうしたんだべない。今はほとんど亡ぐなってっぺけど。かわいそだったない。

 奥さん お祭りのときは必ずいたよね。

 Kさん 親父は戦争に行ったことがあったから、俺に「くっちこ(くれてこい)」って、5円とか10円とか渡して、「入れてこ」って覚えがあんない。

 奥さん あまり入れてもらえなかったみたいだけどね。

 Kさん (祭りになると)ほとんどの角角に傷痍軍人がいたない。1人、2人、3人かたまって立ってて。で、音楽流すんだ。ハモニカ吹いたり、アコーディオン弾いたり、ギター弾いたり。そういうの覚えがあんない。戦争が終わって10年からまりくれえのときだからない。(兵隊は)20歳で出征して、復員してきて、(昭和30年頃には)30歳くれえだからね。

 その頃は、だいたいの人が戦争に勝つって信じてたんだ。親父からはよく神風特攻隊の話も聴いてたない、子どもんとき。「日本にはな、海軍ばっかりじゃねえ、陸軍もあったんだから、神風特攻隊ってのが。最後のほうは飛行機に爆弾つんで、体当たりって……昔は特攻って言ってなかった、体当たりって言ってた……そういう人らがいっぺいいんだからな。自分の命、犠牲にして」って。

 結構特攻隊の生き残りとか、行く前に終戦になったとか、そういう話は聞いたない。学校には戦争に行って帰ってきた先生とかいたからない。話が好きな先生は、煙草をふかしながら、学校の授業で話すんだ、戦争の話とか。激しい戦闘の話とかは聞かねけど、軍隊の生活の話とかない。「新兵のとき、ひっぱたかっちゃ」とか、「だから俺は部下のこと、ひっぱたいたことはねがったんだ」とか。そういう話も聞いたことがある。

寒さに震える日々。ガソリンを求める車の列…東日本大震災の記憶

──お祭りとしては福島稲荷神社が大きかったんですか?

 Kさん 
今でも一番大きいんじゃないかな。他にも三河稲荷とかもあっけど、三河台小学校の向かいに今もあっけど。出店からなにから出てない。あとは盆踊りかい。学校の校庭で盆踊りやって。岳陽中学校でもやったんだ。昭和55年からまりまでかな、学校の校庭で盆踊りやったなんてのは。

 奥さん 校庭に櫓を立てて、上で人が歌って、かなりの人が集まって。

 Kさん 2年か3年くらい続けてやったのかな。

 奥さん 地域ごとにあるんですよ。

 Kさん 今はコロナでできねえけど。だけど、学校の校庭閉鎖してからは、やってねえけどない。昔は学校の校庭で遊んだからない。おかしな事件があってからダメになった。

 奥さん 東日本大震災のときも、岳陽中の前の通りに車がズラーッと並んでたんです。岳陽中を避難所にすることもできたと思うんだけど。校庭に入りたくても鍵がかかっていて入れなかった。

 Kさん あとから体育館が避難所になったけどな。あのときはひどかった。うちにはばさま2人いたから、ばさま引っ張って、車さ乗せて。しょっちゅう地震きたべ。雪は降って寒かったし。電気はつかねし。高湯街道にあった仕事場は電気ついたからよかったんだよな。

 奥さん だからおばあちゃんたち連れて、仕事場で一夜明かして。

 Kさん あの頃はまだ仕事やってたからない。それでなんとか。

 奥さん (自宅は)古いうちだからね、屋根瓦は落ちるし、壊れるし、壁は落ちるし。

 Kさん あんな思いは2度としたくねえ。

 奥さん それ(余震)が終わるのかなと思うと、ずっと続いたから。

 Kさん 水道が出ねべ、トイレつかえねべ、風呂には入らんにし。向かいが川だったから、トイレ用の水は汲んできたけど、今度は料理ができねわけ。コンビニは閉まってるし、どこさ行っても食料はねえし。うちはたまたま食料残ってたからいがったけど。ガソリンはねえべし。俺、明日入れっぺと思ってたから。

 奥さん 最初の頃なんて八木田橋に車がズラーッと並んでて、全然動かなかったし。こっちは避難したいのに、学校のグランドは閉鎖してるし。

 Kさん 大きな余震はくるべし、もういやだ。思い出したくもねえな、あの思いは。

 奥さん ちょうど3月の寒い頃だったんですよ。当時はおばちゃんがいたから、私はおばちゃんを見て、お父さんは仕事場にいて、一番上のお母さんはここ(自宅)にいてと。
 私はおばちゃんと病院の診察室にいたんだけど、そしたら先生の部屋がガタガタ、ガタガタと(揺れた)。そしてまわりガラスじゃない? だから、「これは危険だから、外に出たほうがいい」ってなって、車椅子で外に出たんだけど、それでも余震がやまないじゃない。

 それで、「ここでは寒いし、患者さんもあれだから」となって、「別な人のワゴン車に乗せてもらったほうがいいから」と言われて、ワゴン車に避難させてもらって、それでもおさまらなかった。それで、その後、それぞれ避難することになったんだけど、お父さんの携帯を鳴らしても出なかったので、その人のワゴン車に乗せてもらって避難したんです。

 Kさん 俺はずっと、どこの避難所さ行ったんだべって、あちこちの避難所まわってたんだ。

 震災後はずっと仕事休んで、瓦礫投げ。市が用意した十六沼の向かいまで瓦礫投げ。瓦とか、冷蔵庫とか、テレビとか壊れっちゃから。雪の中、寒くてな。あのときは車も普通の軽だったな。荷物入ったからよかったけど、今の車だったら入らねかもしんにな。

 奥さん (軽自動車で)2回か3回、大笹生まで行きましたね。

 Kさん 壁落ちたからな。袋に詰めて、何袋詰めたべな。3回くれえ往復したから。

 奥さん 家の古いほうは50年以上経ってると思うから。

 Kさん 逆にここ、昔のうちだから、丈夫なの。壁にはヒビ入ってるけど、今のコンパネ色のうちよりは丈夫なんだと思うよ。
 震災の2年後、年寄りが亡くなって、2人だけになったから、仕事もやめて、好きなことやっぺとなって、今にいたってるの。

※個人の記憶に基づく記述であり、歴史的事実とは異なる場合がございます。
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