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クレナリアと本の魔法(3)

 午後の授業のうち、1時間だけ私とクレナリア様は違う授業を受ける。クレナリア様が受けるのは王学、これは男子生徒が受けることを前提としている授業で、女子では彼女しか受けていない。……いや、学園側が、受けないように仕組んだというべきか。
 現に、私もクレナリア様と同じカリキュラムを申請したが、学園側が『定員』という理由で断ってきたため、古歴史学を取得している。クレナリア様には、そのことを伝えないようにと言い含められている。おそらく、王学の知識を、クレナリア様以外の同年代の子女が持つことを防ぐためだろう。

 自分を含めても5人しかいない古歴史学は、とても少人数の授業だ。しかも担当の先生の気分次第で授業が消えることがあり、現にこの時間は自習になっている。一緒に受けている5人の中では、先生が自分の研究に勤しみたいということは共通認識だし、都合がいいので学校側にも黙っている。

 学園のルール的に、私は今、クレナリア様と離れられる時間だ。

「……いない」

 あたりを見回してから、そっと呟いた。良かった、と。
 見上げたのは、巨大な本棚だ。図書館には、借りている時間内はその借りた人と従者しか立ち入れない『個人学習室』がある。自習の時間はそこを借りて、時間いっぱい本を読むことが、私にとってとても楽しみな時間だ。

「ええと……じゃあ、レイス。あの右から35番目の『領地における薬草図鑑』とその隣の『ハーブの秘密』って本と、それから右下の赤い背表紙の『特定農産物への肥料改善書』を運んでくれる?」
「かしこまりました」

 私が告げるとレイスは、すぐにそれら3冊の本を取り出してくれた。個人学習室は従者を通すか、直接図書室の管理人である司書に依頼することで、時間指定で借りられる個室だ。学習のための部屋だから防音設備も整っているし、むやみに外から覗き込まれる心配もない。
 朝の騒ぎの後で、特に事情聴取がないことを知ったので、すぐにレイスに予約を取るようにお願いしたのだ。クレナリア様がずっと傍にいたから苦労したけど、レイスに教えてもらって必死に覚えた指文字が全部伝えてくれた。
 
 ルールは守るべきものだ。状況に、柔軟に対応する必要はあるけれど、図書室ではルールを守ってほしい。以前は個人学習室を借りたことがばれて「どうして私を誘わないの」とひどく怒られてしまった。でも誘ったら、クレナリア様はずっと話しかけてくる。この素晴らしい図書館にいるのに本を全然、読めない時間を過ごすなんて、とんでもない苦痛だった。
 しかもそれを伝えたら「私が全部教えてあげるから」と言われた。私には私の学ぶ楽しみがある、それを勝手に奪われたらたまらない。
 辺境伯の三女である私は、ひょっとすればこのまま、王城へ仕えることになるかもしれない。それはたとえば、クレナリア様の相談役や乳母役という立ち位置だ。そのためには、私も国政や国の成り立ち、あるいは後宮の規則、農業、様々なことに精通しなくてはならない。確かにクレナリア様に教えてもらえば早いかもしれないけれど……。

 何とも言えない違和感が、じくじくと、私の胸を責めるのだ。
 この違和感を抑えるには私はまだまだ幼くて、それと同時に……本を読む楽しみを奪われているような、そんな気持ちになってしまう。
 これはワガママだろうか。私にはまだ、分からない。

「あ、あとレイス。その横になっている本、とってくれる?」
「こちらですね。……これは」
「どうしたの?」
「いえ。こちら、図書室の印が押されていません。誰かの私物かと思われます」

 見せてくれた本には、たしかにこの学園の図書館のものであることを示す印がない。背表紙には、クローデン公国の古い公用文字で『農業技術書』と書いてあった。

「クローデン公国の本で印がないとすると……もしかして、アレイトス・シーヴァニア・ストラトス・ジル・ケトストス・クローデン殿下の持ち物かしら?」
「いかにも」

 突然後ろから聞こえた声に、肩がはねた。振り返ると、クローデン公国の国主一族に多いという、光の加減で色が変わる薄い緑の目を持ったアレイトス殿下が静かにお立ちになられていた。他の生徒はあらぬ方向を向いている。この国の王子も学園には通っているけど、外国の王子はまた別なのはよくわかる。わかるけど。

「申し訳ない。私が置いていってしまったのだ、コッヘル第三令嬢」

 済まなそうな目をしたアレイトス殿下に、慌てて頭を下げる。
 アレイトス・シーヴァニア・ストラトス・ジル・ケトストス・クローデン殿下。隣国であり最大の貿易相手国でもあるクローデン公国の王位継承権所持者、そしてこの学園の交換留学生だ。学年は私の1つ上だから授業で会うことはないが、もちろんお名前とお顔は記憶している。

「失礼いたしました。殿下の私物とは知らず……」
「いや、不用心にも置いていった私が悪いのだ。しかし……これが分かるのか?」

 分かる、というのは、クローデン公国の古い公用文字のことだろうか。確かにこの国では見る機会は少ないが、私の生まれたコッヘル領は、王都に行くよりクローデン公国に入る方が近いほどだ。家にある本はクローデン公国のものも多く、昔から当然の知識としてクローデン公国の言葉も習っているし、その過程で公用文字も覚えていた。

「ええ。クローデン公国のかつての公用文字、今は確か公的な書類へのサインに使われているものと心得ております」
「ああ、いや、なるほど。そうか……」

 レイスの抱える本をちらりと見た後で、アレイトス殿下が言った。

「予想が外れていたら言ってくれたまえ。この本を読みたいかね? 読みたいのなら、私は喜んで貸し出そう」

 思いがけない言葉に、興奮して頬が赤くなる。

「ほ、本当ですか?」
「ああ。どうやら興味があるようだし、私も私物として持ってはいるが、もう何度も読んだ本で冒頭を諳んじれるほどだ。ええと……そう、ヴェレーナ嬢に読んでもらえるなら、この本も嬉しがるだろう」
「……ありがとうございます」

 名前を憶えていて頂けたこともそうだが「本が嬉しがる」という言葉そのものが、とても嬉しかった。

 私、ヴェレーナは、無類の本好きだ。ただ、そう知っている人間は、あまりいない。本が好きなのに、本を読みたいのに、私はほとんど本が読めていない。
 理由はただ一つ、公爵令嬢たるクレナリア・レヴィ・イリヴァ様が、いつも私と行動を共にするから。クレナリア様のことをどうしても、優先せざるを得ない。きちんと話せば分かってもらえる、という希望は、とうにない。

 クレナリア様にとって本は……不要なものに近しいのだ。

「返すのはいつだってかまわない。まあ、私が帰国するまでに返してくれればよいさ」
「いえ! すぐにでも読み終えます!」
「いや、良い。むしろ、ゆっくり楽しんでほしいんだ。クローデン公国の農業技術書ではあるが、昔のいわゆる『精霊による農地への干渉』という発想に加えて、民俗学的な要素も多くてな。私も読んだ時には解釈に時間がかかったし、ヴェレーナ嬢ならまた別の感じ方もあるだろう」
「そうなのですか? では、お言葉に甘えさせていただきます! すぐに読みます!」

 そっと、重い本を抱きしめる。顔がほころぶのを止められない。

「もし返すのであれば、そうだな。ラジア、彼なら従者同士のつながりですぐ連絡がつくだろう。彼に渡してくれ」
「はい、ありがとうございます」

 私の言葉にうなずいたアレイトス殿下は、別の書架へと歩いていった。思わぬ借り物ができてしまったが、まずはこの本を読みたい気持ちでいっぱいだった。

「レイス、個人学習室に行きましょう。早く読みたいわ」
「はい、ヴェレーナ様」

 個人学習室の中に入り、ページをめくる。古書特有の香りと、クローデン公国ならではの跳ねるような筆致。
 確かに、詩的な表現が多い。これは技術書というよりは、口伝を書き写したものに近いのだろう。

『雨に濡れたその後に、土をゆっくりと掘り返す。すると、土の香気をが現れる。土精霊が躍るかのように、私たちはそれで土の良しあしを見極める。香ばしければ小麦に適し、酸味があれば野菜に適し、無臭であれば土は痩せている』

 いろいろと調べながら読む必要がある。そう直感しつつ、私は稿をめくる。
 アレイトス殿下も、本を好まれるのだろうか。あんな風にクレナリア様も言ってくれたらいいのに、と、思ってしまった自分を恥じた。

 クレナリア様は、私が本を読むのを、とても嫌がられる。理由は、私が本を読んでいると、クレナリア様と話す時間が減るから、だ。

 クレナリア様の誘いを断ったら、と考えると、身震いがしてくる。だってクレナリア様は、婚約者であり次期王位継承者たるシニル第一王子はもちろんのこと、現国王からの覚えもめでたき≪青薔薇のクレナリア≫だ。いくら我が家が古くから仕える家柄とはいえ、次期王の妻として育ったあの方からの誘いを断ることは、貴族として許されるふるまいではない。いや、むしろ、1回として許されはしないだろう。
 体調不良も、使えない。もし使ったら、クレナリア様は間違いなく、私の見舞いに来る。そして表面上は仲睦まじいとされている私たちだ、断るのもある意味……不自然かもしれない。

 確かに、私の友人だと、そう思ってはいる。でもクレナリア様と私は、ある1点において、決定的な価値観の違いという壁がある。
 向こうは壁とは思っていないかもしれないが、私にとってはとてつもなく高い壁だ。

 私は、本が好き。本を読むことが好き。
 私は、本を読んでいたい。読みたいと願っている、欲している。
 けれどクレナリア様にとって……本は、本でしかない。それは何も間違いではない。でも私にとっては、とても大きな価値観の違いだ。

 クレナリア様のそばにいる間、読めるのは教科書くらいだ。実は「今日は本を読んでいて良いですか」と、小さい頃に尋ねたことがある。クレナリア様は不思議そうな顔をして「私といるのにどうして読む必要があるの?」と言われた。おしゃべりは私も嫌いじゃないけれど、でも、本を読むのはもっと好きだ。
 だけど、クレナリア様にとって、本はただ読むためだけのものだ。私のように小説を読んだりしない。「この本に書かれている事実は、この小説でこう活用されてたんだ!」とか、空想や連想を楽しむことは、クレナリア様にとってはとても不必要なことなのだろう。

 あの方は、素晴らしい才能を持っている。
 本を読めば一度で内容を覚え、授業を受ければ1を10として学び取る。未来の王妃として、これ以上ない逸材だとさえ言われている。
 口さがない者は「未来は青薔薇の肩にある」と言うほどだ。シニル王子は武勇に優れているけれど、いわゆる政治には疎いらしい。天秤の左右にぴったりと重りを乗せられたように釣り合ったお二人だと思う。

 だけど私が本を読むと、クレナリア様はとても怒る。子供のように癇癪を起して、どうして自分と話さないのかとお怒りになられる。
 私はだから、本を読むのをやめた。でもこの図書館を見て、本を読みたいという気持ちを抑えきれなくなってしまったのだ。それ以来、こうした限られた時間に、一生懸命本を楽しむことにしている。本当は、もっと読みたい。だけど、そうしてしまえば、クレナリア様の不興を買ってしまう。

 悲しいことだと思う。思ってはならないことだとは思う。本当に友人であるなら、私の好きをクレナリア様が許してくれないことを、怖がってはならないとも思う。でも、だけど、クレナリア様の前で本を読むということそのもの。

 それは、それは、とても怖いことだった。


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