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【短編小説】廊下の板チョコ

 板チョコが落ちていた。
 我が家の廊下に。
 包み紙を剥いた状態で。


── どうしてこんなところに板チョコが?


 百歩譲って。このチョコレートがテーブルの上に置いてあるのなら、納得できた。なぜなら、家族の誰かが「食べよう」と思って置き忘れた可能性が考えられるからだ。

 だが、このチョコレートは廊下にある。

 自宅は築60年ほどで、私の祖父母が建てた。ニスが塗られた艶のある廊下は深い茶色をしている。
 その上に、同じくらい深い色の、板チョコが一枚、ぺたんと落ちている。

 百歩譲って。このチョコレートが銀色や金色、あるいは白色などの紙に包まれていたとしよう。だとすれば、家族が他の部屋で板チョコを食べようと思って、何かの拍子に落とした可能性が考えられる。

 しかし。残念ながら板チョコは、剥き出しのまま。

 べたん、と廊下の真ん中に転がっている。

板チョコの落とし主は誰だ?

 昼過ぎの廊下は、謎めいた奇妙な空間へ早変わりした。
 板チョコのを落としたのはいったい誰だろう。

 我が家は五人家族だ。
 私と私の両親、そして父方の祖父母。三世代の家族が一つの家に住んでいる、今となっては珍しい家だ。

 まず候補から外れたのは、祖父母だ。

 祖母は足が悪く、歩くのに歩行器を必要とする。チョコレートを自力で買いに行くことができない。

 それから、祖父は甘いものを好まない。チョコレートなんて、誰かがお土産に買ってきたときしか、食べるのを見たことが無かった。自分で徒歩で買い物にいくことくらいはするが、買い物の対象に選びそうもない。

 父か母がチョコレートを落としたというのなら、まだ納得できた。

 父は甘いものが好きで、よく食べる。チョコレートを買うことも珍しくないし、チョコボールの金のエンゼルを当てたこともある。
 母も甘党だ。コーヒーに合うお菓子を探すのに余念がない。
 チョコレートを買うかどうかでいえば、我が家なら二人が一番ありえる人物だろう。

 しかし、疑問が残る。二人は朝から外出していたからだ。

 私は朝、確かにこの廊下を通ったが、その時にはチョコレートは確実に落ちていなかった。もし二人がチョコレートを落とすなら、朝の外出時だけだ。
 廊下の真ん中に落ちた板チョコレートは、見逃せるほど小さくない。
 実は午前中から落ちていて、午後になって気が付くとも思えなかった。

 では私自身が、チョコレートを落としたのだろうか?

 だがこの数日、チョコレートを買った記憶がない。ついでにもっと記憶を遡っても、板チョコを手に取った記憶もなければ、食べた記憶もなかった。

 なら、本当にこの板チョコは、だれが落としたのだろうか。

そのチョコは実物だった

 考えていると、板チョコが溶けていきそうな気がしてきた。

 午後の日差しをたっぷりと浴びている。このままでは、廊下が汚れてしまうかもしれない。
 私は得体のしれない板チョコを、ティッシュペーパーをかぶせた害虫を拾うかのような動きで、摘み上げた。

 数度、匂いを嗅ぐ。

 確かにチョコレートだ。この甘い香り、滑らかな鼻に抜ける感覚、カカオの風味。間違いない。

 人肌に触れたためかチョコレートが、ぬるり、と溶ける感触があった。
 指先を見ると、溶けたチョコレートが薄く貼りついている。そうっ、と口へ運ぶと、甘い。間違いなくチョコレートの味がする。
 ますます、疑問が深まった。

 その時だ。

解決は口の中


「ただいまー」

 玄関先から声が響く。見ると、母親が帰宅していた。
 私がチョコレートを手にしたまま立ち尽くしていると、母が不思議そうにこちらを見る。

「何してるの」
「いや……ここに、落ちてて、拾ったんだよ」
「えっ、板チョコが?」
「そうそう。昼間なかったし、どう考えても変だよね」

 説明したが、母親は訝しげにこちらを見るばかりだ。それはそうだろう。私も説明していて、全く意味が分からない。

「……ちょっとそれ、見せてくれる?」

 母が言った。私が差し出すと、母はじっとその板チョコを眺めてから、ぱくり、と口へ入れた。小気味いいパキンッという音がして、チョコが割れる。
 あまりの衝撃に私は「えっ、お母さん!?」と叫んだ。

「うん、美味しい」
「いや美味しいじゃなくて!」

 みるみる間に、チョコレートが母の口の中へ消えていく。
 ものの五分ほどで、あとはもう何もなくなってしまった。

「ちょっと、そんな得体のしれないもの食べちゃっていいの?」
「いいのいいの。ずっと私、食べてみたかったんだもの」

廊下の板チョコ

 母はあっけらかんとした顔で言った。

「この廊下ね、昔からチョコレートが落ちてくることがあるんだって、お父さんが言ってたのよ」

 狐につままれた、とはこういうことだろうか。私は廊下の真ん中を振り返る。
 チョコレートは影も形もない。母の口に消えてしまった。
 だが今も、廊下にはチョコレートの香りが立っている。

「お父さんも子供の頃に見つけて、おじいちゃんに聞いたら、おじいちゃんが家を建てた時からなぜかたまに落ちてるんだって。最初はおじいちゃんも変に思ったけど、だれが犯人でもないし、何時落ちてくるかもわからなくて……最初は放置してたけど、もったいない、ってとうとう食べてみたそうなのよ。そしたら普通の板チョコで、とっても美味しかったんですって」
「いやいや……何それ」
「おばあちゃんも知ってるわよ。知らなかったのは、あたしとあんたくらいかしら……」

 この家にいて、初めて知ったことだった。
 板チョコが落ちてくる廊下って、なんだ。

「あたしがもらっても消えなかったのなら、とうとう、認めてもらえたって事かしらね。廊下のチョコ、くれてもいいくらいに」

 母はあまりに奇妙な現象のことなど気にもしないように、美味しそうに口のをぐるりと一周、歯で舐めまわしたのだった。


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