わたくし

毒親育ち元生きづらい系社会人です。年齢不詳顔。別名義で、育ちを一切匂わせない「クリエイ…

わたくし

毒親育ち元生きづらい系社会人です。年齢不詳顔。別名義で、育ちを一切匂わせない「クリエイター」活動をしていたため、知り合いに見つかることなく綴れる媒体が欲しくて、こちらでは匿名性高くぼやいていきたいと思います。

最近の記事

光差す道を選ぶ

久しぶりにfacebookを開いたら、昔どっぷり浸かっていた、とある業界の知人の煌びやかな近状が更新されていた。ここは匿名の場所なので詳しくは語るまいが、要するに、その知人とやらは、超ド級の生まれながらセレブなんである。 「昔の自分は、ここで成り上がろうとしていたのか・・?」というのが今の私の正直な心境である。 そこは、「努力が報われづらい場所」であった。その知人が努力していないというわけでは決してなく、土俵に上がれるか上がれないか、そもそもが貴族か否か、みたいな、そうい

    • やりたいこと

      なぜかよくわからないけれどやりたいことは、大切にした方が良いとよく言われるが、それは本当にその通りだと思う。 だがしかし、本当に大切にすべきは、「やりたいことをやっていく」中での「自分の心の動き」である。生きづらさの中でもがいてきた人間が、やりたいことに出会って一発解決になるわけではないことは肝に銘じて置けというのは、自分自身へのメッセージに他ならない。それって「運命の人」に出会えることさえできれば一撃で生きづらさが解消される、みたいな世界観に近い気がする。 思うに、やり

      • 強運

        何かいやなことがあったとき、昔は、益々それに向かっていくようなところがあった。逃げないこと、相手に立ち向かい続けることが強さだと思っていた。 今は、自分を安全なところに避難させることができることが強さだと思うようになった。 こういうことを、本当に最近まで(もしかしたら今日の今日まで)私は他者に望んでいた。(それはつまり「親にしてもらえなかったこと」である。) 言い換えると、親がしてくれなかったことで、私は、「自分が自分に行う」機会を得たのである。あるいは「されなかった」哀し

        • 強さ

          最近「好きな人」=「いやな感情を感じることに罪悪感を覚える人」という刷り込みが入っていることに気が付いた。 肉親だろうが恋人だろうが親友だろうが上司だろうがクライアントだろうが何だろうが、されていやなことは、当たり前に存在する。私が探し求めているのは「自分がいやなことを一切しない」相手なのか。そういう相手をこの世に1人見つけられたら、それが人生のゴールだと思っていたのではないか。 あるいは本当の願いは「されたいやなことをいやだと感じる」ことのできる自分で生きていくことなの

          そのことに気づいた時、ガラスの天井を破ったと思った。その直後に、実際にはガラスの天井など存在しなかったことに気づいた。 私は、独立した無限の存在である。

          そのことに気づいた時、ガラスの天井を破ったと思った。その直後に、実際にはガラスの天井など存在しなかったことに気づいた。 私は、独立した無限の存在である。

          自分が被支配者でなくなれば、支配者もいなくなる

          自分が被支配者でなくなれば、支配者もいなくなる

          そして私は自分がいつも、いつでも、あらゆる鬼と化する可能性を認めて受け入れている。だからこそ私は私を誰よりも尊敬し、信頼している。

          そして私は自分がいつも、いつでも、あらゆる鬼と化する可能性を認めて受け入れている。だからこそ私は私を誰よりも尊敬し、信頼している。

          自分は元々愛の存在なんだから、本来は全てが快。外れて不快を感じて、戻りたければ戻ればいいし、戻りたくなければ戻らない選択をしたって良い、どっちでも良い自由があるし、どっちの経験も愛から派生してる。だって愛の存在だから、外れても愛。心から戻ったらもっと愛。

          自分は元々愛の存在なんだから、本来は全てが快。外れて不快を感じて、戻りたければ戻ればいいし、戻りたくなければ戻らない選択をしたって良い、どっちでも良い自由があるし、どっちの経験も愛から派生してる。だって愛の存在だから、外れても愛。心から戻ったらもっと愛。

          不快になったら、寄り添い、段階を一致するまで調整し、体感のくる、愛の選択肢を選び直して経験するだけ。

          不快になったら、寄り添い、段階を一致するまで調整し、体感のくる、愛の選択肢を選び直して経験するだけ。

          予想以上のことが起こり得るから、目標やビジョンなんか具体的に決めなくていい。全ては結果。後からわかること。自分で天井決める必要なんかない。自分はここまで、とか、正味おこがましすぎ。

          予想以上のことが起こり得るから、目標やビジョンなんか具体的に決めなくていい。全ては結果。後からわかること。自分で天井決める必要なんかない。自分はここまで、とか、正味おこがましすぎ。

          それが自分の中にあるものだったら、見つけて深掘りして広げてくのは容易いこと。無理やりやらないとしんどくなるようなことだったら、無理してやる必要はない。自分が今感じてること、自分の中に在るものを経験していくだけなんだから。

          それが自分の中にあるものだったら、見つけて深掘りして広げてくのは容易いこと。無理やりやらないとしんどくなるようなことだったら、無理してやる必要はない。自分が今感じてること、自分の中に在るものを経験していくだけなんだから。

          自分が自分のこと絶対的に好きで絶対的に味方で、幸せだったら、他人にどう思われてもまじで関係ないな。 人に反応するのって相手の問題だってマジでわかってると、本当に楽だし、自分のことを誰が好きになってくれるかなんてコントロールできないけど、きっと引き合うんだろうから楽しみだな。

          自分が自分のこと絶対的に好きで絶対的に味方で、幸せだったら、他人にどう思われてもまじで関係ないな。 人に反応するのって相手の問題だってマジでわかってると、本当に楽だし、自分のことを誰が好きになってくれるかなんてコントロールできないけど、きっと引き合うんだろうから楽しみだな。

          変化諸々

          最近の自分の変化のスピードには、自分でも驚いている。 それはもう色んな変化が生じまくっているのだが、今日記録しておきたいのは、少し前の自分は「余計な気の回し」が多かったということだ。なぜそうなるかというと、「相手をコントロールしよう」とする意識が強かったというのがひとつの理由である。 自分の思う通りに事が運ばないと不安だと、言葉数が多くなるんである。その言葉でさえ、選んで発せられているものではあるので、その背景には更に大量の思考が存在するんである。 「【自分が】相手にこの

          気づく

          自分のラジオを聞き返していたら、「私は自分に許されたがっている」ことに気が付いた。自分に許してもらって、初めて悲しみが自分の味方になってくれるものだと思い込んでいた。そのことに気が付いたとき、どこかから「いや、許すも何も、最初から味方だから」という声が聞こえてきた。 私は、私に愛されるために、「許してもらい」「許可を得る」必要はなかったのだ。 果たして自分の無意識が、自分自身に対する罪悪感から、「よかれと思って」どのような贖罪行為を行ってきたのやろう。 「私はこの人に不義理

          悲しみを傍に

          どんなジャンルでも圧倒的な結果を出している人の特長のひとつに、「物事をひとつひとつ改善していく意志と実行力が凄い」というのがある。 言葉尻だけを捕らえると、完璧主義のように思えなくもないのだが、元完璧主義者から言わせてもらうと、両者は実際には全く似ても似つかない、異なるものである。 過去の私が陥っていた完璧主義は、自分から力が失われていくものという前提で話を進めるが、それは動機が「責められたくない」というものであった。「優秀と思われないとしぬ」という強迫観念が根強くあった

          悲しみを傍に

          たぶん、自分がどういう意図とバイブスでコミットするかで、同じことやっても力の出方と結果がマジで変わってくる。今の自分のはそこそこいける気がする。

          たぶん、自分がどういう意図とバイブスでコミットするかで、同じことやっても力の出方と結果がマジで変わってくる。今の自分のはそこそこいける気がする。