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私たちは船~人と思考の関係性

引き寄せない法則の1
「気付きのワーク」

前の投稿にて、「引き寄せない法則」という概念を提示させていただきました。ここからはその実践について、となります。(前稿をお読みでない方は是非)

いきなりの結論ですが、いくつかある法則性のうち、最も大切なのは「気付くこと」、それだけです。この感覚を掴むことが全ての基本であり、おそらくは帰着点でもあります。

何にどのように気付くか。ここから、私が最も大切だと考える感覚、「自分」という存在をどのように捉えるかについて、その入口となる寓話をお示ししたいと思います。

以下の文章をお読みいただくこと、それがひとつの「ワーク」と考えて、可能な限りあなた自身の心情を投影してお読みいただければと思う次第です。

あなたは船

あなたは、ある一艘の船に乗ってこの現実社会という海を旅している。まずはそのように想像して下さい。

この船は、あなたが生まれながらに両親から、あるいは天から授かったものです。そして、全ての人がそれぞれ、同じように一艘の船を有しています。 

この世界では、大半の社会的関係が海の上で構築されます。仕事も、学校も、家庭も海の上です。従って、全ての人に固有の船は必須なのです。

皆が授かるこの船には、ある性質が備わっています。

ひとつは乗り手の成長に合わせ、共に成長するというもの。
時には航海中に拾得した資材を使い、時には立ち寄った島々で手にしたアイテムを駆使し、あなたの乗る船はあなたの成長に伴って大きく、機能的に変化してゆきます。RPGさながらにです。

見渡すと、それぞれが各々に仕立てた船に乗り、同じ海を渡っています。
船の形態は様々。豪華客船のようなものもあれば、軍艦のようなもの、時には筏のようなものまで、それぞれ艤装を凝らして共に海を渡っている、そんな風景です。

それぞれが駆るこれらの船には、当然各々に名前がついています。芸能人や一部の人を除き、多くは生来の名前をつけます。あなたがヤマダタロウならば、船は「ヤマダタロウ号」というように。

そして、この船にはもう一つ重要な機能が備わっています。それは「自動運転」と表現できるものです。
まるで現代におけるAIさながら、日々学習をし、より安全な航路であったり、合理的な航法などを思考し、ほぼ自動で動いてくれるのです。
乗り手であるあなたが直接操舵することもあるし、プログラムすることもありますが、成長と共に高機能化し、乗り手であるあなたとの一体感を増し、最適な航海を提供してくれる。そんな、とても高性能な船なのです。

「船」と乗り手である「あなた」、この二つが一体となって、現実社会という海を日々渡っていきます。


お気付きのとおり、これは今で言うところのアバター的概念です。ネット上やゲーム内であなたの代わりに存在し、活動するキャラクター、それを「船」として例えました。

アバターは仮想空間での存在ですが、実生活上のあなたも、実はこうしたアバター的なものを伴いながら振る舞っています。それが良いか悪いか、どういう程度かといったことはまた別の話として、およそ全ての人はそうです。

想像してみて下さい。あなたが身を預けているその船を。

どんな性能を有しているでしょうか。この海で、どんな役割を担おうとしているか。
性能は他に比べて劣ってないか、装備は充分なのか、塗装などはちゃんとしているのか。

周りを見渡すと、実に多くの船が同じ海域に存在し、あなたはそれを「他者」として認識します。そして、周りから見た「あなた」もまた、一艘の船として認識されています。

その大多数はお互い名も知らず、帰る港も知らぬ関係ですが、船としての外見や艤装を見て「美しいな」「強そうだな」という想像は出来ます。

ただ、乗り手同士が甲板上に姿を晒して行き交うことは、通常はありません。実生活のあなたが、「剥き出しの自分」を曝け出して仕事や学校へ赴くなんてことが無いように。

会社や学校での関係ともなれば、舷側に書かれた名前もはっきりと読めますし、船としての基本性能もお互い解ります。それでもやはり、乗り手同士が甲板上でやり取り、ということは滅多にありません。

時折キャビンから顔を出してというのは、例えば酒席などではあるのでしょうが、日常においては「船対船」の関係で相対し、コミュニケーションを取ります。

親子や兄弟、夫婦といった近しい関係であっても基本は同じです。成長するにつれ、多くは船同士としてお互いを認識している。それが実際です。

もうひとつ、この世界観における制約があります。
それはあなたが、あなた自身の乗る船がどういう姿をしているのか、普段は俯瞰出来ないということです。

もちろん、「こうでありたい」というイメージは持っているし、そのように仕立てる工夫、努力はしてるのですが、客観的にそれを確認する事が難しいのです。

乗り物として例えているからには「降りる」ことは出来ます。この「降りる」という概念も、この先私がお伝えしたい重要事項のひとつなのですが、実はかなり難しい。
例えるなら、眠っている時くらいでしょうか。

さて、ここまでがこの寓話の基本的な概念の提示となります。


船と乗り手

当然私たちは、それぞれが一個の生命体として生まれ、存在しています。しかしながらその内面は複雑です。
体内の主要な臓器は、まるでそれぞれが一個の生命体であるかのように振る舞い、物言わず私たちの営みを支えています。

脳もそうです。私たちそれぞれが意図し、考え、行動する以上に、実に多くの事を知らぬ間に処理してくれています。そんな尊くも神秘的な営みを、何時しか「当たり前」と感じるようになり、半ば依存してはいないでしょうか。
そんな関係を「船と乗り手」の関係で捉えています。

そう、私たち個人は言わば「船とその乗り手」なんです。実社会における活動の大半を「船」としての自身に投影し、委ねています。そして「乗り手」であるあなたも、姿はあまり見えないけれど必ず行動を共にしています。

これを「肉体と魂」という関係では捉えないで下さい。私たちの脳、思考や意識の中で並立的に、パートナーとして存在する「機能」と考えてみて下さい。

この世界観における社会全体を「海」と例えましたが、それは現実と大きく乖離しない認識であると言えます。
何故なら私たちは皆、生身のまま、剥き出しの存在のまま、この社会を渡ってゆく事が難しいからです。
それ故に、家庭で、学校で、社会で私たちは様々な事を学び、情報やスキルを手に入れ、その多くを「船を整える」事に費やします。
この海を安全に、より確実に目的地へ向けて渡るには船を整えるのが当然なのだから。


この後、私の実体験を通してこの「船」という概念をもう少し深くお伝えしたいと思います。

私という船は沈んだ

いきなり重苦しい表現ですが、それが事実です。もう12年以上前のことです、その時まで私が苦楽を共にした「船」は完全に沈み、今なお深海に眠っています。
つまり、今こうして発信をしている私は別の船に乗っている訳です。
そうなった経緯を掻い摘まんで、再び船をモチーフとして紹介します。


沈んだ船の物語

経済レベルとしては貧しいほうの家に生まれた私は、それ自体はそう苦にする事もなく、普通に成長してきました。
それどころか、生来の気質もあってか、子供の頃からリーダー的存在として社会と関わるといった自我を確立していた感があります。

社会人となって10年程経過する頃には、色々な縁も相まって、周囲からも一目置かれる存在となっていました。
人並みではあるけれど、順調な航海だったと言えます。

何時しか、私の傍らには一艘の船が寄り添っています。いわゆる結婚です。収入も将来性も全く不安のない二人は新たな港、すなわち家を手に入れます。
時を置かずして、その間には小さな船がやって来ます。そう、愛する娘も授かったのです。
こうして、誰もが羨む小船団は旅を続けました。

そんな幸せな航海が6、7年程続いたある日、船団に異変が起きます。と申しますか、異変が起きたのは私の船。

私の船は、それなりに高機能だったと思います。仕事は人並み以上にこなし、社交的で家族思い。もちろん弱点もあるにはありましたが、それをカバーしてあり余る艤装を持ち、何より当の私自身が「私の船」を気に入ってたと言えます。

その性能を信じていた私は、より困難な仕事、責任を伴う立場へと身を投じてゆきます。
航海に例えるなら、まだ見ぬ海域に赴き、新しい航路を見つける日々。そんな仕事です。
その先により大きな幸せ、成功があると信じていました。

そんなある日、いつもの航海のさなか、私は船底に何か異音を感じます。

「ゴツン」

見通しの効かない海域、何か流木でも当たったのだろう。当初はそんな認識です。
しかし、その異音は次の日も、また次の日も続きました。そこでようやく気付くのです。
「この海域には暗礁がある」と。

ここから、私は最初の過ちを犯します。私の船の性能ならば、必ずやこの海域を突破できると信じ、来る日も来る日もその暗礁に挑み続けたのです。

結果は想像に難くないものです。毎日暗礁に当たり続けた船底には亀裂が生じ、やがて目に見える程の孔となり、浸水が始まりました。
そしてとうとう、船体の半ばが沈む事態となり、出航すら出来なくなりました。

実際には何が起きたのか。
それが「うつ病」と呼ばれる病だったのです。

その「うつ病」がどのようなものであったか。ここでは詳細を省きますが、とにかく苦しく、突如として色々なことが出来なくなる恐怖。それは今でもはっきりと憶えてます。
それまで出来ていた簡単な事務作業すら、パソコンの前で固まったまま進まないような状態。ただ苦しくて涙が溢れて来るのです。

話を船の例に戻します。

航海を半年以上休み、船体に入り込んだ水を掻き出し、船底を応急処置したところで再び航海に出ます。

そこで私は二つ目の大きな間違いを犯します。例えるなら、同じ海域を同じような航法で乗り切ろうと考えたのです。
うつ病という病歴によって失ったかも知れない「何か」を取り戻そうと、とにかく必死に足掻きました。

結果は再びの浸水。

それを2度、3度と繰り返し、4年ほど過ぎた頃、とうとう私の船は操舵室までが水に浸かり、沈没寸前となりました。
にも関わらず、無理な修理を重ねツギハキだらけになっていた私の船は、完全にコントロールを失い、半ば暴走船の様相を呈していました。

ただ、そこまでの経過が孤立無援だった訳ではなく、救いの手はあったのです。

その当時の妻、両親や兄弟、色々な人が救いの「ロープ」を差し伸べてくれていました。


最大の過ち

特に妻が差し伸べてくれたロープは、常に手の届くところにあったと、今でも思います。ところが、まさにもう沈もうかという時、私は最大の過ちを犯します。

私は、沈みゆく我が船を惜しみました。そこまでの何年か、それを何度も繰り返したようにです。名誉なのか愛着なのか、それまで苦楽を共にした「私という名の船」をとにかく惜しんだのです。
そして気が付けば、妻が差し伸べたロープを、沈みゆく船体にくくり付けている自分がいました。
「この船を失いたくない」その一心で。

妻のそれとは、比較にならない大きさの船体を支え切れるはずもなく、このままではもろとも沈もうかというその時。


妻はロープを切りました。


私は船と共に、海中深くへと一度沈むこととなります。そしてその渦中、苦しさの余り船室を抜け出し、やっとの思いで海面へ顔を出します。

その時、既に周囲に船の姿は無く、生身の私独りが海面を漂っていました。

どれだけの時間漂っていたかわかりません。生身のまま漂ようのにも疲れ果て、このまま海中へと沈む覚悟も見えた時、ひとつの灯りが近いて来て、私を見つけ出してくれたのです。

それは、生まれ育った故郷の家族でした。


以上が、私たちを船と捉えた「寓話」となります。
私自身を船に例えた後段は、実体験を基にはしておりますが、あくまで物語です。実情はもっと悲惨(笑)。

ただ、このエピソードにおいて、「ロープを切った妻」が酷い人のように映るかも知れませんが、そんな事はない。

なまじ高性能な船が暴走しだすと、周囲を強く巻き込んでしまう。
危険なんです。

私は、彼女の判断を恨めないし、尊重しています。
決して楽な選択ではなかったのですから。


大切な気付きを得るために

私を例に話を進めます。どうしてうつ病になり、具体的にはどういう経過を辿ったかは、ここでの主題ではありません。
重要なのは、私の思考や行動の基底に何があったか。それが「引き寄せる」「引き寄せない」に、大きく大きく関わっているということです。

物語の中では、私が犯したであろう三つの過ちに触れています。

  1. 私自身の「船」の性能を過信し、依存し過ぎたこと。

  2. そこまで上手く機能していた「船の自動運転」を、トラブルの後も何度も繰り返したこと。

  3. 周りの人は「私」という乗り手を助けようとしたのに、乗り手である私は「船」を助けようと固執したこと。

感じ取って頂けるでしょうか。


船とは「思考と習慣」

私がこのエピソードで「船」と例えたのは、現実には主に「思考」として現れる、脳の一機能です。
私たちがこの現実社会で適応して行くには、絶対不可欠で大切な機能。「船の自動運転」と例えたように、私たちは学習し、経験し、様々な思考を「習慣」に落としこんで、なるべく負担が少ないように自動化します。

問題なのは、その思考と何時しか一体化し、いつの間にか主従が逆転してしまう事なのです。
この問題は、往々にして物事が上手く運んでいる先に発現する。そこにも注意が必要です。

ここで言う「思考」とは、決して得体の知れないものではなく、あなた自身の日常に頻繁に姿を現します。それが「脳内対話(セルフトーク)」と呼ばれるものです。

この「脳内対話」こそが、私が例えるところの「船」の機能そのものであると言えます。そしてこの機能は、極めて有能ではありますが万能ではない
理由は簡単です。あくまで「機能」の一部でしかないのですから、そこまでに学習し、インプットしたものでしか構成出来ないのです。

なのに私は、本来私の一要素に過ぎないはずの思考、習慣、経験、すなわち「私という名の船」と一体化し過ぎ、執着し、そして共に沈んだ。
その時、家族が救いたかったのは「乗り手」である私本人。私が固執したのは、私が乗る「船」。
それが事実で、なぜそのような固執に陥ったかは次稿にて触れたいと思います。

誤解なきよう申し添えますが、このことはあなた自身の「能力の限界」を指すものではありません。「乗り手」であるあなたの可能性は相変わらず無限です。
一方で、あなた自身がこの現実社会を渡るために仕立てた「船」の能力には、自ずと限界があり、その範囲での役割がある。そういうことです。

そう、気付いて下さい。
あなたが今、苦しみ、傷付いているとするなら、傷付いているのは「あなた」ですか?
それとも「あなたの船」ですか?。

あなたが今、様々なことを上手くこなせているのなら、上手くやれているのは「あなた」ですか?
それとも「あなたの船」ですか?

答えはあなたにしか解りません。そして、どちらが正解ということもありません。
大事なのは、その違い、役割に気付くことなのに、私たちはどうしても、思考や習慣という「船」に埋没し、依存してしまうようです。

そう、気付くこと。目的とするのは「気付き」そのものです。次稿、更に掘り下げたいと思います。


・・・感謝・・・
ここまでお読み頂きありがとうございます。
次稿は「気付きを支えるコトダマ(言霊)」と題しお送りする予定です。
引き続きお付き合い願えれば幸いです。







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