常不敬菩薩

 10年来の友人は霊視ができると言う。正確にはその人に所縁ある、加護ある神が私には見えるのだと言うのだ。
 ものの試しに私には何が見えるかと尋ねてみて少し驚いた。はじめ「何もついてないかも」と言っていたのが、女の人でヒラヒラした服を着たのが見えるという。スマホで神を調べながらああこれだといって私に見せたのが「鬼子母神」であった。鬼子母神は日蓮宗の護法善神であり、私の実家の宗派は日蓮宗なのである。
 (はて、このこに私は実家の宗派を伝えたことがあったろうか)
 もしかしたら何かの弾みで伝えていたのかも知れないし、彼女は池袋でよく遊ぶというから鬼子母神前という駅名をたまたま思いついただけかもしれない。どちらにせよ、少しドキリとする体験であった。
 そこから少し日蓮宗と鬼子母神に興味をいだいたのである。
 鬼子母神は人喰い鬼女である。我が子のために人間の子供を攫って食らっていたのだ。仏陀の説法により、人食いをやめたという曰くのある神である。その子供に対する狂気は去年私が参加したバリ島芸能の魔女ランダと通ずるものがある。母の狂気、そして、その子供。私にとって一つテーマとなりうる主題である。
 そして、日蓮宗は法華経(妙法蓮華経)という経典を最も大事な経典であるとする。これは去年調べていた摩多羅神に関わる天台宗も同じく重要としている経典である。大乗仏教という個人救済から衆生救済への一大転換点となる経典だ。こちらもあらましを読んでみてなるほどと感心することばかりであった。
 特に法華経については、何故か私のOSにしっかりと組み込まれているような気がしてならなかったのである。どういうことか。ここで語られる理念は私が何故か、あまねく全ての人に対して良き行いをしたいという願いに共鳴するものであったのだ。おそらくこれは、宮沢賢治が関わるものである気がする。幼少の頃の記憶と宮沢賢治の質感は何故か重なるものがある。もしかしたら母が読み聞かせていたのかもしれない。
 例えば、法華経の中には常不敬菩薩という聖人がでてくる。彼は「私は誰も侮りません」と言って気味悪がられ、迫害される人物である。立派な人に言っているだけならまだしも、明らかな悪人や、どうしようもない愚かな人たちにもそれを言って回るのである。みじめでいじけたものにとって、これ以上の屈辱はない。彼らは常不敬菩薩に石を投げ殴りかかる。それでも常不敬菩薩は走り逃げ、遠くから「それでも私はあなたを敬います」と言い続けるのである。
 この説話はどの人にも、どんな悪人にも仏になる資格(仏性)があることを示す説話だそうだ。宮沢賢治のアメニモマケズはここからモチーフを得たのではないかと言われているそうである。
 私の考えにも少し通じるところがある。私も、全ての人に良きことをしたいのは、全ての人が私よりも立派で優れたものを兼ね備え、そしてそれを見失っていると思っているからである。何も私が聖人であると言いたいのではない。全ての人に私より優れた点があり、それは私には決して真似できない、本当にそのように私は感じているのだ。この観念はどこから私に流入したのか。私は何故そのように思うのか。
 おそらく、これは私の中に少しずつ小さな砂のごとく誰かが撒いた種が堆積していったものなのである。それは祖父の言葉であったかもしれないし、祖母の呟きだったかもしれない。たまたまバス待ちの時間に話した誰かや、見知らぬ私によくしてくれた大人だったかもしれない。誰かが好きだと言った映画や、母の見ていたテレビや、父の語ったジャズミュージシャンの逸話だったかもしれない。私は複数の関係の網の目、複合体として存在するのだ。私の決定はもちろん、私の意思決定であるが、その私とはあまねく偏在する全ての人々の思いそのものなのである。そして、その魂が私と常不敬菩薩を共鳴させ、それを鬼子母神としてみうるのが霊力であるとするならば、旧友の彼女の霊視も捨てたものではないのではないかと思うのである。
 私にはまだ抱えきれない問題が山積みである。それらは全て私という複合を語り直す上で避けては通らないものである。その先にもしも、あなたや彼女や、彼がいたのであればこれは全く幸いなことである。不幸も悪も存在し得ない、そう思うための、肯定と否定の向こう側、彼岸へ、私はゆきたいと方便の船を探している。

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