クリシュナ(詩)

 私はひとり、自宅の庭で、友人の書いた文章を読んで涙を流す。最近はなんだかずっと涙脆いなあなんてことを思いながら。しかしそれはきっと、与えられたものに気づいたからである。
 過去、私の涙は何に捧げられていたか。おそらくそれは私の苦しみにであった。それは苦しみに捧げるのであるから捧げられた苦しみはより勢いを増し、もっと捧げよと私に詰め寄るのである。
 しかし、今日私が流す涙はおそらく、世界そのものに対して捧げられていたのである。涙があたたかいことを知るのは、なんと美しいことであるか。それについての論考はなんと言葉にならないものであるか。ゆえに詩は詩であり続けるのである。言葉は一つの形態でしかなく、その言葉も形態を超えうるのだという確信が、詩という運動を今日まで人類に促し続けたのだ。
 仲違いをした友人と抱擁をし、「僕らはより良く生きる能力があるし、その価値がある。だからそうしよう。」と話したのは昨日のことであり、そのように彼と話す事が出来たのは1人の女性が私に託した本のおかげであった。古代インド神話「バガヴァットギーターの世界」。愛するものと戦うことはできないと弓を置く戦士アルジェナに神クリシュナが戦うべきであることを諭すという内容の本であった。
 私にとって彼女はまさに天が遣わしたもののようであり、字の如く天使だったのだ。その彼女とバガヴァットギーターにおける最高神クリシュナを祀る寺院に伺ったのが今日であった。
 クリシュナのお陰で私は彼女と彼における諍いを治めようと努力したし、その方法も全てが間違いではなかったと確信しているのである。その感謝も込めてお詣りにでもいこうという趣旨。はるばる江戸川区まで伺ったのだ。
 私にとって、時以外の力が世界を変更したことは初めての体験であった。ようするに私は逃げていたのだ。逃げ出すことのみに執着し、その義務もその遂行も私の目には映らない虚構となっていたのである。
 全ては因果であり、見えない法によって収束するのであれば、彼との抱擁はまさに私と彼の善のひとつの完成であった。それは誰にも理解されえぬことかもしれないが、それに対して何も思わないのは、世界が私に与えたものに私自身がしっかりと気づいているからである。
 寺院を出て、2人でプラプラ歩いていると見た顔が駅の花壇に座っている。金玉三郎である。金玉三郎と名乗る初老の男は自らの服にマジックで下品な文言を書き連ね、鼻の下には黒いガムテープでちょび髭をつけた異様な人物である。江戸川区近辺に彼は生息し、すれ違う全ての人に何かを大声で訴えているのだ。
 彼を知ったのは、私の友人と件の女性から送られてきた写真からである。
「〇〇さん!変な人に会いました!超うける!」
江戸川区の町で彼らは金玉三郎と出会い、その報告をメッセージアプリを使って私にしてきたのだ。
(こいつら正気か。よくこんな危険人物とかかかわるなあ。)
私も大概であるが、私の友人2人もすこぶる奇妙なのである。今度は彼のいない江戸川区で彼女と私は金玉三郎と邂逅する。
 写真から伝わる異様さに私は怪訝な顔をしていたが、なるほど、実物を見るとこの人はまったく危険でないのだ。確かにこの人は愛すべきチャーミングな奇人であった。しばらく話を聞いてみる。
「にいちゃん、姉ちゃん、あんたら結婚しろ!おめーのマラを印鑑にしてよぉ、給料の7割は姉ちゃんに渡してやれ!それが愛ってもんだ!にいちゃん、あんたは賢そうだから、日本のために働いてくれよぉ!」
 支離滅裂な金玉三郎の祝福を持って、我々3人のわだかまりは無事解決をみたのである。
 私はケラケラ笑いながら、帰りの電車で彼女にいう。
「金玉三郎はもしかしたら神かもしれんね。クリシュナはビシュヌ神の化身なんだろう?じゃあ金玉三郎がビシュヌ神の化身ではないと言い切れる?金玉三郎の祝福でおわるなんてまるでよくできた小説みたい。」
「金玉三郎がクリシュナだったってこと?今度は3人でまた会いたいね」
「そうだね、また会えるよ、今度は3人で。」
そう言って私は宇都宮に向かっているであろう私たちの友人にメッセージを書く。
(実家に帰省するなら学生服もってかえってきてね)
 この歳で制服ディズニーしようなどと言う悪ふざけを3人で話していたことを思い出したのである。
 (行為の全てが儀礼であり、そしてその行為が誰に捧げられた祭祀であるか。それが重要である。)というのがクリシュナの教えであった。
 私たちの奉ずる神はきっとヘンテコでよくわからないことが好きなのである。しかしそれに親愛があるのであれば、やはりこの祭祀は継続すべきなのだ。金玉三郎は我々の宗教体系における聖人である。私たちの暮らしはまったくおかしなことばかりであるが、それはそれとしてきっと聖なるものの一部なのだ。


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