友人の妻は私と肩を組みながら、春の夜道を2人きりで歩く。「肩組んで歩こうよ!」「おしいいぞ!」、こうして肩を組んでみるととても歩きにくい。 「君身長何センチ?」 「150cmだけど」 「かー、ちっちぇえー」 どうりで歩きにくい。あまりに肩の位置が違いすぎて私はほぼ中腰である。 「まー、でも〇〇はさ、良い女だから。あたしの中ではあなたと〇〇のカップリングは推しカップリングだから頑張ってよ」 「うん、ありがとう」 彼女のエールを素直に受け取る。先ほどまで彼女は双極性障害の症
10年来の友人は霊視ができると言う。正確にはその人に所縁ある、加護ある神が私には見えるのだと言うのだ。 ものの試しに私には何が見えるかと尋ねてみて少し驚いた。はじめ「何もついてないかも」と言っていたのが、女の人でヒラヒラした服を着たのが見えるという。スマホで神を調べながらああこれだといって私に見せたのが「鬼子母神」であった。鬼子母神は日蓮宗の護法善神であり、私の実家の宗派は日蓮宗なのである。 (はて、このこに私は実家の宗派を伝えたことがあったろうか) もしかしたら何か
胸の奥に手を突っ込んで 内臓の端っこを掴んで そのまま引っ張り出す 汚物のまとわりに、薔薇の花を一輪見つける 「内蔵に薔薇はそぐわない」 それゆえに確かに感じるのは まったく不健全。 棘があることも、日がな、花が開くことも そしていつか散るであろうことも まったくもって真実のようであるのに そこにあることだけをどうして疑うのだろうか。 汚物に塗れ、血が滴る。 その血を決してこの薔薇は吸わないであろう それゆえに疑わしい。 それゆえに愛おしい。 も
「ごめんなさい、ごめんなさい」 いい歳をした男の私は泣きじゃくる。電車のシートで隣の彼女は虚空を見つめながら私の手を握る。 私の口から漏れ出す言葉は何故か「ごめんなさい」であった。私を殴った彼の、彼の怒りに対してではない。それは、そうならないようにできない自分の無能力を嘆くものである。ちょうど母親に「なんであんたはできないの」と怒鳴られた幼児がわけもわからず謝るしかできない様。小さな子供の頭では母の怒りの理由は思い浮かばず、ただそれをわかってあげられない無力、それゆえに母に
「あー、金玉さん?」 我々3人がよくいく安いバーの店長。彼の知っているような口ぶりに驚く一向。 「え、ご存知なんですか?」 「うちにもくるしねー、たまに」 「えー」 「俺の嫁が仕事で支援の担当しててさあ、ほらあの人元ボクサーで、パンチ受けすぎちゃってああいう状態じゃない?」 「あの人ボクサーだったんですか!」 「らしいよ?なんか賢かったらしいし、昔は結構モテたって」 「店長が結構繋がりあるのもビックリだけど、あの人が元々ボクサーっていうのも驚きです」 「悪い人じゃないからさ
花を飾る。そのために朝の町を歩く。仕事に向かう彼女を見送りがてら無人販売の花屋に寄ろうという算段だ。改札をくぐりダラダラと歩いて行く彼女の背中。手を振りながら私は踵を返し、家を目指す。今日は私が休みなのだ。 花屋にきてみるとまだ開いてない。11時から開店との看板。また後で来ようかと思い歩き出すと、いつものバーの髭のマスターとすれ違う。マスターは目がほとんど開いてないような状態で自転車にまたがっている。マスターに会うのは3.4日ぶりだ。深夜、友人の女性と口論をして最後、「お
私はひとり、自宅の庭で、友人の書いた文章を読んで涙を流す。最近はなんだかずっと涙脆いなあなんてことを思いながら。しかしそれはきっと、与えられたものに気づいたからである。 過去、私の涙は何に捧げられていたか。おそらくそれは私の苦しみにであった。それは苦しみに捧げるのであるから捧げられた苦しみはより勢いを増し、もっと捧げよと私に詰め寄るのである。 しかし、今日私が流す涙はおそらく、世界そのものに対して捧げられていたのである。涙があたたかいことを知るのは、なんと美しいことであ
4月に死んだ動物たちの供養塔を建て、 これは嘘であったとする儀礼。 ドキュメンタリーとは嘘である。 見せたい自分を見せるだけ。 ドキュメンタリーという虚構。 ただその中で、もし演劇が行われるならば そこに「ほんとうのこと」があるのではないか。 虚構の中の入れ子の虚構、そこにふっと現れるどちらでもないもの。どうやらそれが一番確からしい。 何度か同席したドキュメンタリー作家の監督が言っていたことである。 彼は「ほんとうのこと」を見つける手段として、虚構のなかに虚構を混ぜる。た
人にするキスよりも 人からされるキスの喜びを考える あんなに喜ばしいことを あなたにできる自信がない そのくらい うれしい
手をとるとは 手首の傷に気づくこと そのうえでまた傷をつけ 運命線を増やすこと 傷をつけて 生命線が縮むことはない 線は伸びるばかりで 消したり、縮めたりは出来ない
東京のはずれの街、敢えて言うまでもなく寂れて、老人か学生か、人生を折り返した顔をした人間だけが行き交う街に彼は住んでいる。 私は東京の西側に住んでおり、彼は東の果て。電車で1時間ほどかかる距離である。 「〇〇さん、僕仕事中だけどよくわからないビデオ見てるだけの日だからドンキホーテでもいく?」 「なに、ドンキで女装用の服買うの?」 「それかウィッグか、あと2時間ぐらい仕事しなくて良いし」 彼は在宅勤務で営業の仕事をしており、日がな家で電話をかけ続けるのである。今日は社内の特
真実、本当らしい、確からしいこと。そういったものに私は執着している。それは裏返せば「嘘」に対する嫌悪でもあると言える。私は虚偽に敏感であり、それは真実というものが確かに存在することへの盲信と、隠されたことに対する不安とでこしらえられた檻である。 例えば、「本当は私のことなど関心がなかった」という人がさも関心があるように振る舞う様や、「楽しい」ということが後々聞けば、実はしんどかったのだということに私は心底恐怖しており、過剰なサービスや、それに伴う心労はその恐怖を紛らわすた
眠っていると部屋に泥棒が入ってくる。泥棒には事前に今日家いないことを伝えていたのだが、私は具合が悪く、予定を取りやめてロフトの寝床にいたのである。 私は恐ろしく、寝たふりをして息を殺す。 鼻歌混じりに彼女の荷物が運ばれていく。小さい声、独り言が聞こえる。ビリビリと破かれる段ボールの音。何度もドアのバタンという音。扉の向こうの共犯者の気配が恐ろしく、やはり私の呼気は減っていく。最後の仕上げと電気が消され、真っ暗な中に私は取り残される。私の寝息だけが2月を保存し、部屋の中はす
遊びのモデルが、世界認識のモデルと同一であり、その認識に没入するための装置であることは前回までに書いたことである。 そして、その没入がある種洗脳のように自らの基盤にリアリティをもたらし、それが普遍化したことによって、我々は人間となる。普遍化したパターンが他者から見て逸脱してる場合は神経症患者とよばれ、それが法律というまた別個の約束に抵触する場合、彼は犯罪者と呼ばれる。 我々は自らを同じ基盤を共有する共同体成員として生成し、その基盤の表現を古来では「聖なるもの」と呼んだの
競争の遊びと演技の遊びはともに、その遊び世界に没入させるための装置として機能する。没入することによってその世界観はリアリティを持ち、それ以外に世界などないような錯覚をもたらす。競争のうえでの敗北はまさに世界の終焉であるし、演技のうえでの悲劇は実際に涙を伴う場合すらあるのである。 我々は世界を安定化させるため、つまり認知の不可を下げるために「考えないようにする」「限定化する」ということを行う。それがなければ、私たちはたちまち、外に出ていいのか、家の中にいていいのかさえ判断が
アゴンとはロジェカイヨワが遊びを四つに分類した上での競争の遊びの呼び名である。カイヨワ曰く、人間の活動は全て遊びのモデルで説明されうるという。 競争はあるゲームにおいて行われる。ゲームであるからにはルールがあり、そしてルールとはそのゲーム世界をゲーム世界たらしめる世界観そのものである。 そして、競争はそのゲームへ人を没入させる効果を持つ。「競う」というものは、人を「ルール」様の従順な奴隷に変え、ゲームの内側にどんどんと引き摺り込む装置なのである。 私が競争を恐れるのは