鈴木亡者

 鈴木は見ず知らずのおっさんに咬まれて、昇天したものの、運が良いのか悪いのか正気は保たれた。
 せっかくの休み、それはスーパーマーケットでの突然のことだった。
 会計を済まそうとレジに並んだところで、目の前のおっさんが突然、震えだし、振り返ると犬の糞を踏んだサンダルの裏みたいな顔をしていた。
 首筋の疼痛と、血が流れる感触を振り切るように店をでると、目の焦点があっていない人々がふらふら。逃げ惑う人が四方八方であたふた。
 スーツ姿の女は鈴木を見ると、顔を歪めて叫んだ。
「助けて! こないで!」
 何が、助けて、だ。俺は正常だ。ただ少し、お姉さんが食糧という意味で美味しそうと思っただけだ。しかし、いくら美味そうに見えても人に齧りつくなんて、出来るわけがない。
 鈴木は事態の把握が出来ないままに、とりあえず、家に帰ることにした。
 耐えがたい食欲と、信じがたい倦怠感から、ふらつきながらなんとか自宅アパートに到着した。
 水道水をがぶ飲みし、震える手でカップラーメンをつくり、冷凍ご飯をレンジで解凍し、貪り食う。
「ま、、不味い――」
 鈴木はその不快感に耐え切れず、嘔吐した。胃腸を絞られるような空腹を超えた飢餓感に身悶えし、万年床にダイブした。
「何がどうなっているのか」 
 人を貪りたい。
 それもたらふく。
 とはいえ、理性が、その正気さがそれを押しとどめる。。
(いや、それでも、背に腹は代えられない)
 そこで、誰なら、どんな人間なら食べても良いか考えることにした。
「おっさんだ。おっさんならいくら食べても誰も悲しまない」
 鈴木は、おもむろに部屋をでると、夜気をたっぷり吸いこんで隣の部屋をノックした。
 反応がない。居留守で籠城しているに違いないと、玄関ドアに体当たりした。想像よりも呆気なく開き、異臭に気づく。
 糞だ。人糞だ。
 奥に目線をやると、おっさんが首を吊っていた。
 床には糞だ。人糞である。
 鼻が曲がりそうになりながらも、飢餓感から夢中で抱きつき、首筋から貪った。不快な加齢臭と汗臭と、血のにおい、ふやけたゴムのような感触。その貪り具合はフライドチキンが思い出される。
 ひとしきり”食事”を楽しむと、一目散で、人糞と血のにおいで満たされた部屋から脱出し、自室に戻った。
 それからは、満腹で、赤子のように万年床で眠りについた。
 目覚めると、
 空腹感が鈴木を襲った。
 鈴木は洗面台に向かう。
 鏡に映っていたのは、何の変哲もない鈴木だった。
「夢か。とりあえず、飯でも買いに行くか」
 鈴木は財布をスウェットパンツのポケットに突っ込み、よたよたと外へ出ると、それとほぼ同時に隣りのおっさんが部屋から出てきた。
「こんちわ」
 僅かばかりの挨拶をすると、おっさんは消え入りそうな声で「あ、こんにちわ」と返してきた。気配に邪気が籠っている。側溝にハマっていてほしい。というか、さっさと引っ越してほしい。いや、自分が引っ越すか。
 おっさんなど、どうでもいい。
 鈴木は昼間の空気を胸いっぱい吸いながら、スーパーマーケットへ向かう。その途中、小学校が目に入った。
 子供たちが高い声を上げながら、休み時間なのか、男の子たちがドッチボールで遊んでいる。女の子たちは縄跳びを、それはもう楽しそうに。
 爽やかな青空の下、チャイムが鳴り響いた。
 鈴木は、ふと、思った。
(いいな。活き活きしててさ。希望が迸ってるな。若いっていいな)
「仕事、いい加減、決めないとな」
 子供たちの姿が、ほんの少し鈴木のやる気に火をつけた。線香花火ほどの、心もとない陽炎のようなものだが。
 亡者同然の現状を呪っている場合ではなく、今日の夕食は納豆ごはんであると決め、鈴木はスーパーマーケットへ歩きだした。


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