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バックホーム

狭い洗面台でユニフォームを洗う。
洗濯機ではどうしても落ちない汚れ。
市販の洗濯洗剤では落ちない汚れ。
グローブなどを販売しているお店で見かけた特殊(?)な洗剤でゴシゴシ洗うとよく落ちる。
そのおかげで子供は喜ぶが、妻はヘトヘトになっている。毎回。
「ユニフォームぐらい自分で洗え」との怒号の後、時々自分で洗っている姿を見るようになった。
先日、2年ほど付き合っている彼女に洗い方を教えていた。
明日の試合が最後の試合だと言うのに。
狭い洗面台でユニフォームを洗う2人の背中を見て、僕と妻は笑っていた。

小学校から帰って来た次男が突然、「野球をやりたい」と言い出した。
かつて僕も小学5年生の時、友だちが少年野球をやっていることが羨ましくて親に言ったことがある。
「野球をやりたい。」
返ってきた言葉は、「そんな金どこにあんねん!。金出してスポーツやるバカがどこにおる!野球なら裏の空き地でなんぼでもできるやろ!」と怒られた。その悔しさは今も忘れない。
はっきり言って、今の僕にもそんな余裕はなかったが、リトルリーグに入団することができ、彼の野球人生がスタートした。

監督、コーチ、保護者のお母さん方。他のチームの子どもたち。たくさんの人と関わりながら、文字通り揉まれた。日に日に強くなる子どもの成長に、人知れず泣いた。僕は一眼レフのカメラを買い、息子の成長を撮り続けた。
中学になるとリトルリーグを退団し、軟式野球部に入部。硬式から軟式への変化にも柔軟に対応した。何より仲間がたくさんできていた。
人付き合いの苦手な僕も、保護者の皆さんに仲良くしていただき、気づけばPTAの広報や副会長をしたりしていた。まさに、教育ならぬ『共育』だ。

当然と言わんばかりに、高校進学と共に高校球児となった。まさか、自分の息子が甲子園を目指すなんて思いもしなかった。また、自分が高校野球を支える保護者の立場になるなんてことも想像していなかった。部員数合計120人もいるような『本気』の野球部だった。甲子園の土こそ踏むことはなかったが、地方大会ではテレビにも映った。新聞や野球雑誌にも写真が掲載されたりもした。
監督や周囲の人たちとの会話の中にも、多くのプロ野球選手の名前が出たりする世界線に自分がいることに戸惑いしかなかったが、どこかの球団から何でもいいから声がかからないものかと妄想するようにもなっていた。

高校から大学へ進学する際も、その先の将来も含めて野球を続けた。大学野球の監督は、甲子園経験者であり、高校野球の監督しても甲子園を経験された方だった。周りには誰もが知っている有名な高校から来ている選手もたくさんいた。そんなたくさんの人脈の中で、ここでも、たくさんの方々に支えていただいた。仲間にも恵まれた。
僕の人生は貧乏すぎて、まず諦めることから始まった。卑屈さは日増しに強まり、人から遠ざかり、孤立していった。その悔しさを決して子どもたちには味合わせたくはないと踏ん張ってきた。
2人の子どもはそれに応えてきてくれた。たくさんの先生方や大人たちに、そして仲間に支えられていた。

最後の試合。
この試合を以って次男の野球人生は終わる。
プロへ行く道はない。いや、今後、指導者としてどこかの学校の野球部監督や顧問になる道もあるかも知れない。
周りの仲間の中には、昨年末のドラフトで名前を呼ばれた後輩もいた。社会人野球に進む者、指導者を目指す者、さまざまにそれぞれの道を進んでいる。
息子は医療従事者の道を目指す。
そして、最後のリーグ戦。最後の試合。勝利で終えることができた。個人としても『結果』を残した。
(本人には内緒でこのエッセイを書いているので、特定されない範囲で表現させていただく。)

彼の野球人生は、たくさんの人脈を培い、たくさんの仲間に守られ、たくさんの心の財産を積んだ。
今度はその与えていただいたものに心から感謝をし、還元していって欲しいと願うばかりである。
野球だけではないだろうが、僕はいつも言う。
エラーはいつでも、どこでも、誰でも起こし得るもの。エラーが出ても出ていなくても、全員がその次のプレーのために、カバーに入り、フォローに回っておく。備えておく。たとえエラーが発生しても、それに備えてさえいれば、被害は最小限に抑えられる。人生も一緒だ、自分さえ、ヒットを打てればいい。自分さえ、エラーしなければいいなんてことはない。常に周りのカバーを心掛けること。
野球はひとりではできない。
人はひとりでは生きていけない。
かつて、孤立した僕はそれをこの身で知っている。

幼少期から成人を迎えた今までの野球人生。
そこで得たものをバックホームして欲しい。

洗面台に残されたあの洗剤はまだ、残っている。


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